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未知標  作者: 一族
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第三八二話 さかまく火群(一二)

 喫茶「まひかぜ」の扉をくぐるなり、濃厚なコーヒーの香りが孝子を包んだ。眺めれば、総木張りの店内の落ち着いた色調が、目に優しくなじむ。入り口での一瞬は、この場所に来た、という思いを強く感じさせてくれる。

「おはようございます」

 ザ・ブレイシーズのミーティング会場に到着したのは孝子が最後だった。他のメンバー、剣崎と郷本信之は既にカウンター席に着いて、コーヒーをやっていた。

「岩城さん。ご無沙汰してます」

 あいさつが済むと、孝子は椅子に腰を下ろし、目の前の老店主に改めて声を掛けた。カウンターの向こうに立つ老店主の岩城は、今日もしゃっきりと姿勢がよい。

「本当にご無沙汰だよ。まだご老体のほうが顔を出してくれる」

 孝子は首をすくめた。数カ月ぶりの来店なので、言い返す材料は皆無であった。

「そう言いなさんな、ご老体。暇を持て余しているじじいどもとは違うんだ。ケイティーは現役の大学生ですよ」

 信之が言った。互いにご老体と言い合う二人の、実際の年齢は一つ違いで、岩城のほうが年長だ。外見も、白髪の岩城に対して、信之は黒々とした頭髪と、差異がある。あまりにも不変の髪型とも相まって、孝子は後者を、かつら、と見てはいたが。

「おじさま。わがマネは今日もサボりですか」

 九月下旬の一日、土曜の朝の集いを取りまとめた男の姿は、店内に見当たらなかった。岡宮鏡子こと孝子のマネージャーを務める尋道である。

「専門家同士で、よろしくどうぞ、だってさ」

「あの男、前も同じことを言ってましたよね。なっとらん」

 愚痴る孝子の前に淹れたてのコーヒーが供された。

「ありがとうございます」

 一口含んで香りと苦みとを味わう。

「オフィスに置いてるコーヒーメーカーも、まあまあおいしいんですけど、やっぱり、ここのコーヒーには勝てませんね」

「だったら、もっと飲みにおいで」

「はーい。で、剣崎さん。打ち合わせって、何をやるんです? 曲目の追加もないし、話し合わないといけないことって、他にありますか?」

 対する音楽家の返答は、否、だった。二点ほどライブについてのアイデアがあるので、意見を聞きたい、そうである。

「ケイティー。例の、コンペの曲って、どうなってます?」

 舞姫の舞台演出で使用する楽曲のコンペティションに孝子も誘われていたのだ。

「全然。私、通算で四曲しか仕上げてないんですよ。そんなすぐにできません。せめて一曲でも、送り込めたらいいんですけど。こればかりは、なかなか」

 孝子の嘆息に、剣崎は小さくうなずいた。

「うん。じゃあ、ケイティーのほうは置いておくとして、実は、一曲、郷本さんの昔の曲を預かってるんだ。ボーカルのある曲なんで、ライブのセットリストに加えてみるのは、どうだろう?」

「おじさまの? ぜひ」

 信之は孝子の音楽の師匠に当たる人物だ。その彼の手掛けた楽曲とくれば、自分の楽曲よりも、よほど興味深い、といえた。

「よし。入れましょう。もう一つ、せっかくトーアでやるんだし、前に話のあったスリーピースのバンドを、本格的にやってみませんか」

「やります」

「担当は、郷本さんがベースで、俺がドラムで、ケイティーがキーボードって話だったけど、それで問題ないかな?」

「私が、比較的、まともにできるのは鍵盤楽器しかありませんし」

「サポートメンバーで補う手もあるけど」

「スリーピースじゃなくなってますよ。結構です」

「確かに。じゃあ、キーボードだけど、ポータブルの電子オルガンがあるんで、それでいこう。貸し出そうか」

 あるいは、仕事場に置いておくので、勝手に使ってもらうか、と剣崎は提示してきた。剣崎の仕事場は、喫茶「まひかぜ」の入居するビルの地階にある。

「音も出せるし、二人の都合が付けば、セッションもできる。どうだろう」

「お邪魔になりませんか?」

「俺、朝と夜はほとんどいない。好きに使っていいよ」

 閑静な住宅地の海の見える丘では、ヘッドホンの使用が必須となっている。音量を気にせず、楽器を奏でられる環境は魅力的だった。それに、剣崎の案に乗れば、お小言を頂戴した老店主への顔見せも同時にかなう。一石二鳥を、孝子は狙うこととした。順当にいけば、ライブの主賓が帰国するのは、一〇月下旬の予定だ。約一カ月、楽しい明け暮れになる予感があった。

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