第三八一話 さかまく火群(一一)
何はなくとも試乗となった。誘われるまま、孝子は佐伯と並んで後部座席に乗り込んだ。
「神宮寺さん。ドアに、スイッチがございますでしょう。相当、後ろまで下がりますよ」
運転席の伊央がドライビングポジションを合わせる間だ。助手席の蟹江が振り向いて言った。勧めに応じて、孝子はドアに配されているスライドスイッチを操作した。巨大な車の巨大なシートが粛々と動く。
「おおー。下がるー」
次いで、リクライニングスイッチだ。
「倒れるー」
「走行中は危険ですので、もう少しシートは立てておいてください」
ふんぞり返っていた孝子は体を起こした。
「お待たせ。出すよ」
調整を終えた伊央が宣言した。車がそろそろと動きだす。
「いいわー、これ。全然、ロードノイズが入ってこないわ」
車内の静粛性をたたえる伊央の声だった。確かに、通りを流れに乗って走っているにもかかわらず、騒音は皆無だ。前後の会話もよく通っていた。
「蟹江さん。俺、これ、欲しいですよ。ぜひ、お願いします」
「ええ。お任せください」
「いざとなったら佐伯君にも協力させます」
「僕、関係ないのに」
哄笑が収まったときだった。
「北崎さんが妹分を誇ってたの、よくわかるな。さっきから神宮寺さんの切れ味がすごいわ」
伊央がつぶやいた。
「それほどでもあります」
「神宮寺さん。俺、車買ったら、北崎さんをドライブに誘おうと思うんだけど、どうかな」
春菜が伊央に言い寄られているらしい、と孝子に語ったのは麻弥であったか。まだご執心は続いていたようだ。
「いいんじゃないですか」
「でも、ここまでの当たりは、どうにも微妙なんだよね。嫌われてはいないっぽいんだけど。姉の威光でなんとかならない?」
「それは私に対する伊央さんの態度次第でしょう」
ルームミラーに映る伊央の顔が見る間に笑み崩れた。
「佐伯。どうしよう。接待を要求されたよ」
「神宮寺さん、アレルギーがあって、普通の接待はできないですよ。ねえ」
「うん。面倒な体で。しかし、あの子に目を付けるとは、伊央さんも物好きですね」
「なんで。かわいいじゃん。あと、がたいがいい」
「外見の話はしていません。性格」
「性格も、かわいいじゃん」
たで食う虫も好き好き、ということわざが思い浮かんだが、口外は無用だ。
「あの生意気な大娘がかわいいなら、私なんて、さしずめ天使かな」
「その性格は、すごく好きだな。でも、小さくて細いから、守備範囲外」
車内を揺るがすような孝子の大笑だった。
「佐伯君。なんで、あんな人を連れてきたの。事と次第によっては、カラーズを追い出すよ」
「いや。一応、年上だし。本当は、嫌だったんだよ。僕も被害者」
笑顔交じりの抗議に、佐伯の返しも明るい。
「お前ら」
「決めた。絶対に破局させる」
「まだ成就もしてないのに、いきなり破局か!」
「口さがない自分を恨むがいい。よし。手始めに、この車の商談も破局させる」
内輪のなれ合いが長くなっていた。ここらで車の話に戻すことにした。
「蟹江さん。うら若い女性に対する、言語道断の態度を、ご覧になったでしょう。こういう男に、車を売っちゃ駄目ですよ」
蟹江は口元を押さえている。
「やばい。佐伯。助けろ」
「すみません。僕もカラーズなんで。社長の意向には逆らえないです」
「じゃあ、こうしよう。俺もカラーズに入るよ。身内の粗相なら、多少は多めに見てくれてもいいんじゃない?」
失笑しながらも、孝子は頭を働かせていた。仮にも、ユニバースの得点王になったほどの男だ。カラーズで抱え込めるのならば、抱え込みたい存在といえた。伊央の人柄も申し分ないように思えた。守備範囲外とは、かの斯波遼太郎に言われて以来だが、快く響く。性別問わず、さっぱりと接してくれる相手が、孝子の好みだった。
「伊央さんは、マネジメント事務所には入ってないんですか? あと、仲介人は?」
「どっちも」
「なら、どちらもカラーズが引き受けましょう。蟹江さん。伊央さん単独でなくて、カラーズがバックにいる、とくれば、多少はローンも組みやすくなりませんか?」
「ええ。それはもう」
「決まりだ。しかし、話が早いな。北崎さんが懐くのもわかるわ。ああ。そうだ。一つ、気になる点があるんだけど」
「なんでしょう?」
「北崎さんも、カラーズなの?」
「そうですね」
「じゃあ、さっきの話は取り下げようか」
「さっきの?」
「姉の威光で、ってやつさ。社長の威光になっちゃ、北崎さんも困るでしょ。正攻法でいくよ」
潔い。あっさりとしている。そうでなくては、と思う。孝子の意にかなった伊央の表明であった。
わかった、と口に出しつつ、孝子の内心は定まっていた。この快男児を、ただで済ますわけにはいくまい。当然の知遇を与えるべきだろう。依頼の取り下げに応じた後に、孝子が自らの意志で動くのなら、なんの問題もないはずだった。
決まりだ。




