第三八〇話 さかまく火群(一〇)
依頼された仲介の労を完了した以上は、当事者同士に任せておけばいい、となるはずだった。そうはいかなくなったのは、取り次いだ際の蟹江の様子にあった。頑張ってみましょう、と言った声には、悲壮な決意が宿っているように思われた。
頑張ってくれなくてよかった。相手は薄給の身をわきまえず、高級車を買おうとする身の程知らずだ。現実を教えてやってくれれば足りる。孝子は主張したが、蟹江の断は変わらないようだった。思えば彼は、ワタナベ2000についても、気張って当たる姿勢を示していた。こちらも適当でいいのだ。ウェスタの商談以来、大過なく担当営業の責を果たす蟹江に、孝子は好感を抱いている。無理をさせるのは本意ではない。当日、様子を見に行って、必要とあらば軌道の修正を図ろう、と決めた。
孝子が神奈川ワタナベ海の見える丘店に車を乗り付けたのは、午後一時半を少し回ったあたりだった。二人に遅れぬよう、余裕を持って行動した。
「おや。神宮寺さん。お車に、何かございましたか?」
特に来店の意志を告げていなかったので、迎えた蟹江は驚いている。
「口を利いた手前、知らんふりもできない、と思いまして。まだ、来てないですよね?」
「ええ。あ。神宮寺さん。こちらです」
二人が会話していたのは、敷地の奥まった場所にある来客用の駐車スペースだ。そこから蟹江は、道路沿いの試乗車、展示車置き場まで孝子を先導した。
「ご用意させていただきました。当社SUVの最高峰、ジュノーです」
蟹江が指したのは、小山のような白いSUVであった。
「いかめしい車ですね」
「伊央さんのお目当ては、おそらくTHI-GXだった、と思いますが、負けてませんよ。きっと、ご満足いただけます」
孝子はうなずいた。THI-GXを知らないし、知りたいとも思わないので、適当だ。
「高いんですよね?」
「それだけの価値はあります」
「いえ。そういうお話ではなくて。蟹江さん、本当に無理しないでくださいよ」
「大丈夫です。そうだ、ちょうどよかった。2000の稟議が通ったんですよ。三年間の無償リースでいかがでしょう?」
「無償リース、ですか?」
「ええ。先方、というのはカラーズさんですが、仮に、贈呈、のような形にしますと、諸経費が所有者に掛かってしまうので、先方の負担が最も少ないのは、これだろう、とうちの経理に言われまして」
そこまで話が進んでいる以上、遠慮は無粋のそしりを免れまい。
「わかりました。ありがとうございます。お世話になります」
「こちらこそ、よろしくお願いいたします。ついては、会見をお願いしたいのですが、差し支えはございませんでしょうか? 重工さんの手前もおありと存じますので、派手なものにはいたしません。当社の公式サイトに掲載するだけにとどめます」
「私、ですか?」
「いえ。メダリストの方たちの」
当然だ。孝子の会見なぞに誰が興味を示すか。勘違いに思わず赤面だった。
「承知、しました。では、会見を含めて、細部を詰めるため、改めて、当社の渉外担当から連絡を入れさせましょう」
今回は、しっかりとみさとに伝わるよう手配した。
「お願いいたします」
蟹江の了承も得た。尋道めに締め上げられる心配は、これであるまい、と内心で大威張りの孝子であった。
佐伯と伊央が神奈川ワタナベ海の見える丘店に現れたのは、約束の五分前、午後一時五五分だ。見覚えのあるミニバンでやってきた。
「神宮寺さん。来てくれたんだ」
佐伯が運転席を飛び出てきた。
「一応ね」
「初めまして。舞浜F.C.の伊央です」
助手席を降り立った男は大きい。一九二センチある伊央である。
「初めまして。カラーズの神宮寺孝子と申します。蟹江さん。ご紹介いたします。舞浜F.C.の伊央健翔さんです。伊央さん、こちらが神奈川ワタナベ海の見える丘店の蟹江さんです」
伊央と蟹江があいさつを交わす傍ら、孝子は佐伯のそばに寄った。
「この車、まだ乗ってるの? おうちは迷惑してないの?」
グレーの車体は佐伯が実家から借り出したもの、と孝子は聞いていた。ユニバースでの活躍がたたって、とは妙な表現になるが、顔が売れ過ぎ、公共交通機関を使いづらくなったので仕方なしに、とはブロンズメダリストの言だ。
「してる。早く返せ、って言われてるよ。もうほとぼりも冷めたかな」
「まだだよ。佐伯君も車を買おう。ここで」
「僕、F.C.なんだけど」
「カラーズの所属でもあるよね。そのカラーズの社長が、買え、って言ってるのに、逆らうの?」
「むちゃくちゃだ」
佐伯は噴き出した。
「もっさんに聞いたのかな。うちとこちらで、車をどうこう、って話。まとまったんで、恩返しに紹介をしまくるの」
「ああ。そういう話だったら」
「佐伯さん」
思案顔の佐伯に、伊央とのあいさつを済ませた蟹江が声を掛けてきた。
「神奈川ワタナベ海の見える丘店の蟹江の申します。以後、よろしくお引き立てのほど、お願いいたします。さて。当社の車では、はばかりがあるようでしたら、重工さんの中古を、お探しいたしましょうか?」
名詞を手渡しながらの攻勢に、佐伯は目を見張っている。
「え? それは、なんだか、申し訳ないような……」
「なんの。いつか、F.C.さんへ義理立てする必要がなくなったときに、当社の車をご検討いただければ、結構でございますよ。その日までのご縁の品ですね」
「はい。お買い上げ」
孝子の一本締めで大勢は決した。後に、神奈川ワタナベ海の見える丘店の回し者、とまで呼ばれるようになる敏腕セールスの、一台目の業績であった。




