第三七九話 さかまく火群(九)
この夜の通話の相手は郷本尋道だ。通常、彼が連絡を取ってくるときはメッセージが多い。それも綿密なやつが届くので、基本的には、了解した、と返信するだけでよいのだが、今回は珍しく、多少の不審があった。ただしてみるとしよう。孝子は手にしていたスマートフォンを操作した。エディとの通話の翌日、明ければ大学の後期が始まる週末である。
「おはよう」
「おはようございます」
つながった瞬間に、思い立って戯れてみたが、尋道は乗ってこない。
「前に、同じように話し掛けたら、もっさんは、すごい混乱してたけど。今、夜だよ、どこいるの、とか言って」
「海外に出掛けるような方でもないですが、合わせておけば、取りあえずは問題ないか、と」
「つれない。今、大丈夫?」
「はい」
メッセージには、二点、書かれていた。一点目は、神奈川ワタナベ海の見える丘店に、舞浜F.C.の佐伯と伊央健翔を紹介してもらいたい、であった。
事の発端は、伊央が車の購入を志したことだ。当初、伊央は、所属チームの母体企業である高鷲重工の製品を買おうとしたそうな。ところが、ローンを断られた。年俸に対して、あまりにも高価な車を望んだのが、その理由だった。そして、憤慨する伊央に、自分の所属事務所と付き合いのあるディーラーなら、なんとかなるかもしれない、と話したのがカラーズの契約アスリート、佐伯、という流れになるらしい。
「郷本君」
「はい」
「佐伯君は、舞浜F.C.の伊央さんがタカスカーズに行って駄目だったのに、なんで、神奈川ワタナベなら大丈夫かも、って思ったの?」
「なんででしょうね。頼まれたことを右から左へ流しただけなので、佐伯君の心持ちについては、僕にはなんとも。大方は、例の車の話に尾ひれが付いたんでしょう。正村さんのお話を聞く限りでは、協賛までは達していない感じでしたが」
「そうだよ。どうして訂正しなかったの」
「協賛まではいっていない、というのが、僕の想像に過ぎない以上、訂正なんてできるわけがありませんよ。神宮寺さん。車好き同士で意を通じるのは結構ですが、こういう事態も起こり得ますので、せめて、斎藤さんにだけは伝達してくださいね」
孝子はぐっと詰まった。そろいもそろって使いものにならない、と戒められた形だった。
「後はお任せしても?」
正論に押し込まれては応諾するしかない。
「それにしても、伊央って人は、何を買おうとしたの?」
「名前は忘れましたが、一〇〇〇万超えの車だそうですよ」
「確か、ユニバースの得点王になった人だったよね。買えそうな気もするけど」
「佐伯君が言うには、プロといえども一年目は制限があって、そこまで年俸は高くないとか」
「ふうん」
二点目は、孝子がボーカルを務めるバンド、ザ・ブレイシーズのライブについてだ。ユニバースでゴールドメダルを取れたら、と静にせがまれていたのものである。
「再来週の、土曜日か日曜日、お時間を取っていただけませんか? 剣崎さんが打ち合わせをしたいそうなんですが」
「どちらでも大丈夫」
「はい。では、正確な日程が決まり次第、また連絡を差し上げます」
通話が終わった瞬間に孝子は舌打ちした。約束のあったライブはともかく、紹介のほうは面倒な。どこのどいつが尾ひれを付けたのやら。尋道に指摘されたように、現段階で孝子は、神奈川ワタナベ海の見える丘店との要談を、麻弥にのみ語っていた。さしずめ、麻弥が基佳へ、基佳が佐伯へ、といったところだろう。困ったおしゃべりどもだった。
と、二度目の舌打ちの直前で苦い記憶が蘇ってきた。そもそも麻弥は、ワタナベ2000の提供について、はきとした条件を知ってはいない。どのみち購入は決定しているのだ。乞うご期待、などとほざいて、車好きの期待をあおった、初代の困ったおしゃべりは、果たして誰であったか。
過失があった以上、真面目に取り組まねばなるまい。孝子は佐伯に電話をかけた。
「珍しいな。どうしたの、こんな時間に?」
「聞いたよ。郷本君に、神奈川ワタナベの話」
「ああ。どうかな?」
「郷本君が言ってたけど、佐伯君たちって制限があって、まだ薄給なんだって? で、一〇〇〇万超えの車を狙ったんでしょう? 紹介はするけど、さすがにローンは通らないと思うな」
真面目に取り組まねば、とうそぶきつつも、自分がやらかした部分については、しっかり糊塗する孝子だった。
「うん。伊央さんも、さすがに無理筋だった、とは言ってるんで。駄目そうだったら、今の手持ちで買える車にする、って」
「仮に、ローンを断られても、渡辺原動機の車を買うの?」
「重工の車は買わん、だって」
「はあい。じゃあ、セッティングする。プロサッカー選手は、都合のいい日って、ある?」
「試合の次の日の午後から翌日いっぱいがオフだけど、月曜日とか迷惑だよね?」
「それ以前に、月曜日はディーラーが怪しい」
定休日だった気がする、と孝子は補足した。
「じゃあ、日曜日の午後で」
「わかった。決まったら、また連絡する」
「お願いします」
佐伯、伊央両氏の神奈川ワタナベ海の見える丘店ご来店は、翌々日の日曜日、午後二時と決まった。孝子は、電話の後、すぐに就寝したので、行動を開始したのは、明けた土曜日になってからだ。まさに、昨日の今日、で予定をねじ込んだのは、孝子らしい短兵急であった。




