第三七話 五月晴(二)
孝子はその日から北ショップでのアルバイトを開始した。担当官と並んで座って履歴書を書く、という面接は五分足らずで終わり、顔写真は後でいい、と涼子は早速、業務の説明に入ったのだ。
「神宮寺、孝子さん、っていったんだね。すごく納得した」
「風谷さんも、すごくお似合いの名前だと思います」
晴れて名乗られて、孝子もそんな言葉を返している。
業務は主にレジ打ちだった。隣に涼子が立っての実地訓練が始まる。声の掛け方、機器の操作など、適宜、指示が入り、孝子は即座に実行していった。
「しばらくはこうやって私が隣で見るね」
「はい。よろしくお願いします」
「慣れたら、一人でやってもらうね。その間に私は閉店処理をするんで」
北ショップは基本的に二人で店舗を回す体制になっている。涼子とパート、アルバイトの二人だ。午後二時からの時間帯、その一人に逃げられて、涼子は難儀していた、というわけである。切れ間、切れ間での会話で、涼子が唐突に孝子を勧誘した理由もおぼろげに判明した。
「お話にならなくて、ね」
この表現で、涼子は孝子の前任者の学生アルバイトをちくり、だった。勤務態度が悪く、揚げ句に、ぷいっと出勤しなくなった、という。
「三〇分もしないうちにだらけるの。あいさつもできないし。で、きつめに怒ったら、来なくなって。ああいうのには、もう当たりたくない、って。人事に無理を言って採用を任せてもらったの」
切々と語る涼子は、心底、懲りた、という様子だ。
「今日にでも求人を出すつもりだったんだけど、神宮寺さんを見た瞬間に、ぴんときて。ずっと、真面目そうな子だな、って思ってたの。で、思い切って話し掛けてみたら、当たりっぽい、じゃない? もう、多少、時間が短いのは仕方ない。採用しかない、って」
「ご期待を裏切らないよう、精いっぱい、務めます」
客足のほとんどないまま、時刻は午後六時を回った。孝子と涼子は、備え付けの道具で店内の清掃を開始する。上がりの準備だ。
「ひとまず、やってみて、どうだった?」
「意外と、人は多くない、感じがしました」
「そうなの。北ショップは、ちょっと客足が特殊なの」
クラブハウス棟の利用者の性質が、その理由だという。更衣室を利用するために訪れる一般の学生を除いたクラブハウス棟の利用者といえば、体育系の部活動に所属する者たちである。大抵の体育系クラブ、サークルは活動の開始時間が午後三時あたりとなっており、その直前こそ人が殺到するが、その山を越えてしまうと、後は淡々とした時間が終業まで続くのだ。
「かといって、一人は不便だしね。お手洗いにも立てないし。まあ、いざとなったら、お店を閉めてでも行くけど」
そして閉店時間となった。
「いやあ。やっぱり、二人いると違うね。助かった」
北ショップに施錠しながら涼子が言った。
「お役に立てたなら、よかったです」
「うん。神宮寺さんは電車?」
「いえ。駐車場に、車が」
「そうなんだ。私は管理棟に寄っていかないとだから、正反対だね。じゃあ、途中まで一緒に行こう」
二人は並んでクラブハウス棟を出た。
と、
「お疲れさま」
クラブハウス棟の玄関前に立っていたスーツの男性が声を掛けてきた。同時に、なぜか、涼子は小さく噴き出している。お疲れさま、と言ったのだ。涼子の同僚だろうが……。
「こんばんは。それでは、風谷さん。私は、これで。失礼します」
とまれ、気を回しておくか。孝子は足早に、その場を立ち去りかけた。
「待って。違うの。一緒に駅まで行くだけだから」
思わず足を止めていた。こちらは何も言っていないのに、突然、なんだ。
「……風谷さん、どうされたんですか? 私、何も」
涼子は絶句し、やがて、ものも言わずに駆けていった。後には孝子とスーツの男性が残された。
「悪いことを、したんでしょうか」
「大丈夫だよ。ああ。僕は産学連携センターの斯波といいます」
孝子の目の前には、斯波が流れるような手つきで取り出した名刺が示されている。確かに「舞浜大学 産学連携センター 斯波遼太郎」とある。
「法学部の神宮寺孝子です。名刺、頂戴します」
「どうぞ。涼ちゃんにアピールしているんだけど、相手をしてもらえなくてね。さっき、彼女の言っていた、駅まで一緒に、っていう活動を地道に続けているんだ」
「事実だったんですか」
「うん。事実」
「でも、あの子供みたいな否定の仕方は、脈がありそうにも思えたんですが」
「ねえ。実は、あまりにも鉄壁で、駄目かな、なんて思ったりもしてたんだけど。ちょっと希望が持てたね」
「健闘を、お祈りいたします」
「ありがとう。じゃあ、僕は、これで。おやすみなさい」
「はい。おやすみなさいませ。失礼したします」
珍なやりとりが終わり、二人は北と南に、それぞれ歩を進めた。




