第三七七話 さかまく火群(七)
一〇日もすれば大学の後期も始まろうという、九月上旬の正午過ぎだった。孝子は愛車の点検のため神奈川ワタナベ海の見える丘店を訪れた。早いもので、丘の麓にあるこの自動車ディーラーとの付き合いも二年半になった。すなわち、敷地に進入した青い車に気付いて、店舗を出てきた担当営業の蟹江圭史との付き合いも二年半だ。
店内に入った孝子は蟹江の案内で窓際の席に着いた。
「本日は、三〇カ月点検のご入庫、誠にありがとうございます。お車に、お変わりはございませんでしょうか?」
「何もないです」
「承知しました。小一時間ほどで終わろうかと思いますので、しばらくお待ちください」
「はい。お願いします」
「よろしければ、お飲み物をお持ちいたしますが」
蟹江はテーブルの上のメニュースタンドからメニューを取って、孝子の目の前に置いた。
「緑茶をお願いします」
「かしこまりました」
預けた車の鍵を持って退いた蟹江は、すぐに盆を持って戻ってきた。茶菓を供して、再度、引いていくか、とみていたら蟹江は孝子のそばに控えている。
「そういえば、遅くなりましたが、妹さんのゴールドメダル、おめでとうございます」
「ありがとうございます」
「まさか、神宮寺さんがゴールドメダリストのお姉さまとは。それどころか、なんですか、妹さんが所属するアスリートの事務所の社長さんでもおいでになる?」
「ええ。カラーズといいます。正村ですか?」
麻弥がしゃべったのか、と孝子は尋ねた。
「いえ。珍しい名字でいらっしゃいますし、もしかして、と思って調べてみたら、そのようだ、と。バスケ以外にも、なかなか手広くなさっていて、驚きました」
「そうなんですよ。私は何もしてないんですけど、周りがせっせと頑張ってくれて」
「舞浜の地場産のよしみで、応援をさせていただけたら、と思うのですが、いかがでしょうか?」
そういう話なら、斎藤みさとにしてくれたほうが、と言いたいところであったが、たたき台ぐらいなら孝子にもできるだろう。たまには社長業をやってみるのもよい。
「蟹江さん。カラーズのことを調べてるときに、気付かれたかもしれませんが、私たちの関わっている神奈川舞姫というチームは、過去に高鷲重工の男子バスケ部だった舞浜ロケッツの支援を、かなり強力に受けているんです」
「はい」
「なので、舞姫と、その親のような立場のカラーズは、ロケッツひいては高鷲重工に、ちょっと遠慮する部分があって」
「ええ」
「ところが、カラーズに切れ者がいまして。カラーズの社長の私が、渡辺原動機さんの車に乗ってるじゃないですか。因縁を付けられないよう、重工のえらい人をつかまえて、もう重工はマニュアルを作ってないし、どうしても乗りたい場合は、協業している渡辺原動機さんの車なら乗っていいな、って言質を取ってくれて」
「なんと。では、マニュアルを通してなら、お付き合いが可能なわけですか」
「はい。社用車を買う、って言ったら、お安くなりますか?」
「少々、お待ちください」
店舗奥のカタログコーナーに走った蟹江は、いくつかのカタログを抱えて戻ってきた。
「現在、当社で取り扱っておりますマニュアル車は、こちらの四車種でございます」
コンパクトSUVのウェスタ、セダンとワゴンのスカイワードと同ツアラー、ツーシータークーペのWRS、フォーシータークーペのワタナベ2000、以上四車種のカタログがテーブルの上に並んだ。
「これは、私の車と同じですよね。これも、見た記憶があるかな」
ウェスタとスカイワードのカタログを孝子は指した。後者は彰の車がワゴンのツアラーだったはずだ。
「WRSは、正村さんが乗られていた車ですね」
「あの荷物の入らない車が社用車は無理かな。この車は?」
「一応、フォーシーターなので、WRSよりは荷物は入ります。ただ、後ろは本当にお飾りです」
「あの車よりも入ればいいんです。この2000にします」
「は」
と言ったきり、蟹江は動きを止めている。
「これでは地場産のよしみで、一台、お買い上げいただいただけですね。応援になっていません」
「いいんですよ。こういう平べったい車を、一度、運転してみたかったので。それに、少しは勉強もしてくださるんでしょうし。ああ。そんな極端にやらなくて、いいですよ」
「……お急ぎ、ですか?」
孝子は首を横に振った。
「いいえ。むしろ、駐車場の都合を考えると、来年の三月以降がいいのかな。舞姫の本拠地が、そのころに落成するんです」
「さすがに、そこまでは引っ張りませんが、少々、お時間をいただきたいと思います。勉強の仕方を、考えてみます」
「わかりました。じゃあ、こちらのカタログだけ、いただいて帰りますね」
難しい顔をして蟹江が去った後、孝子は愛車の点検が終わるまでのつれづれに、ワタナベ2000のカタログを読み込んだ。平べったいくせに、意外と高い。あるいは、平べったいからこそ、なのか。買うと決めた以上は、どちらでもいいのだが。全く、大したたたき台もあったものだ。




