第三六話 五月晴(一)
新年度が開始して、はや二カ月が過ぎた。風薫る前月を引き継いだ天候は、なおすがすがしい。しかし、一週間もすれば、統計上の平均的梅雨入りの時季となる。それは、後に、確定値としての梅雨入りと発表された、六月初旬、月曜の朝だった。
月曜の朝一番で行われる体育の講義を終えた孝子と春菜は、野球場から程近いクラブハウス棟に向かった。クラブハウス棟には、一般の学生も利用できる更衣室が併設されている。体育の講義の前後には着替えのため、多くの学生たちがここを訪れるのだ。また、建物内の一階にある学生協同組合――学協の売店で、運動前後の買い食いをするのも、やってくる学生たちの一つの流れとなっている。
クラブハウス棟の学協売店は、正確には舞浜大学千鶴キャンパス学生協同組合北ショップという。構内に存在する他の学協ショップと比べると、明らかに規模が小さいのは、利用客がほぼクラブハウスの利用者に限られる故だ。実際、北ショップの開設は、クラブハウス利用者たちの請願によるもの、だそうだ。
着替えを済ませた孝子と春菜も北ショップを訪れた。水分補給のため、茶を買うのだ。春菜の分と合わせて二本の茶のペットボトルを手に持ち、孝子はレジに向かった。春菜は外で待つべく、一足先に店を出ていく。レジ待ちはなく、すぐに会計となる。
このとき、レジを担当していたのは、いつも見掛ける中年の女性店員ではなく、北ショップに常駐している学協職員の女性だった。普段は奥の机に向かっている彼女が出張っていたのは、なんらかの理由で女性店員が席を外していたからだろう。
女性職員の名は風谷涼子という。今し方、見るともなく見た名札で得た情報だ。名は体を表す、というが、これほどにふさわしい組み合わせもないのではないか、と孝子は思った。涼子は、地味な学協職員の制服とは不釣り合いな、はっと目を引く容貌をしている。化粧っ気はうすく、セミロングを無造作に引っ詰めているだけで、ここまで映えるのは相当のものといえた。レジを挟んで向かい合っている立ち姿も、背筋がすっきりと伸びて、実に見事であった。
「おはよう」
「おはようございます」
「袋は、よかったね」
「はい」
いつもの女性店員とのやりとりを聞いていたらしい。
「アルバイトは、してる?」
ペットボトルを手渡しながら、涼子は意外なことを孝子に問うてきた。
「私、ですか……? いえ、忙しくて、何も」
「そっか。残念」
「……お話が?」
「うん。アルバイトの子が急に辞めちゃって、その補充を、ね。考えていたんです。もし、都合がよければ、って思ったんだけど」
アルバイトというものを、このときまで孝子は全く考えていなかった。そこそこの密度の日々を過ごしているのだ。平日は、家を出る午前八時すぎから講義の終わる午後五時前まで、ずっとふさがっている。帰宅後も、自分が食事当番の日は難しい。夕食の下ごしらえが済めば、アルバイト先に直行している麻弥と部活の春菜を送迎しなければならなかった。麻弥が食事当番の日ならば時間を取れるが、そういうときには勉強をする。まだぼんやりとしてはいるが、司法試験を意識している孝子だった。休日も、掃除や買い出し、勉強で、余裕はない……。
ここで孝子は、電撃的に、あることに思い至っていた。車で登校するようになって、日常的に孝子は麻弥から、合格祝いに、と贈られたドライビングシューズを履いている。大変にいい具合で、麻弥の誕生日にはお返しに同じものを、と考えているのだが、その予算が問題だった。孝子の生活費は、美幸より十分に過ぎる額が毎月出ている。また、亡母の遺産も手付かずだ。しかし、友人への贈り物に使うには、この二つは性格的に適さないだろう。
「ん? どうしたの?」
突然、黙りこくった孝子に涼子が声を掛けてきた。
「時間は、どれくらいでしょうか?」
「ここは土日はやってなくて、平日のみの午後二時スタートで終業まで。終業は、他のショップより早くて、午後六時半ね」
「すみません。講義を四時限まで入れているので、無理でした。お騒がせしました」
涼子はうめき、目を閉じた。瞑目の時間は意外に長く続いた。
「……裏を返せば、午後五時スタートならいけるのかな?」
絞り出すような声に、それならば、と孝子は思った。下ごしらえを他の時間に散らせば、平日の夕方二時間程度は確保できるだろう。
「はい。大丈夫です。もし、そのお時間でも使っていただけるのでしたら、詳しいお話を聞かせてください」
「うん。最悪、退勤処理の時間にさえいてくれたらいいです。他の時間は、なんとでもなるけど、あの時間に人がいないと、本当に、私の帰りが遅くなるんで。二時限も、講義? だったら、時間があるときに顔を出してくれる? あ、お昼は忙しくて相手できないかな。放課後がいいね」
外で待っていた春菜が店内に入ってきたのを機に、四時限後の訪問を涼子に告げて、孝子は北ショップを後にした。




