第三五話 春風に吹かれて(一八)
午前六時を少し過ぎたあたりにLDKで顔を合わせるのが、孝子と麻弥の日常になりつつある。これまでも毎朝午前五時半に目覚めていた孝子には、いつもどおりの時間だ。一方の麻弥は自分の弁当派へのくら替えと、春菜の分の弁当が増えたことによる支度量の増加に対応すべく、起き出す時間を早めたのだった。とはいうものの、以前は家を出る三〇分前まで寝床にいた麻弥だ。初めの数日は眠気でふらふらとして、孝子とすれば、邪魔者でしかなかったが。
「あいつ、どこに行った?」
開け放たれた和室のふすまを、顎で示して、麻弥が言った。
「お風呂みたい」
孝子が言った途端に、洗面室の扉が開いた。
「おはようございます!」
春菜がLDKに入ってきた。ふくよかなラインが際立つ白いTシャツに身を包み、頭にはタオル、色白の顔はつややかに上気している。
「朝風呂か」
「はい。お手伝いします」
「先に髪を乾かせ」
「後でやります」
「……だんだん、わかってきたんだ。孝子、ちょっと頼む」
麻弥は自室に赴くと、ドライヤーとくしを持って戻ってきた。
「お前の、後で、は、やりません、だ。座れ」
麻弥は春菜を椅子に座らせると、ぬれ髪を乾かしていく。
「結構、タフな髪だな」
ぬれた状態でも跳ね上がっている春菜の髪を言っているのだ。
「私も、これ以上伸ばすと、ひどいんだ」
「それは思いました。今の長さでも、後ろ髪に気配がありますよね」
ベリーショートの襟足辺りが、カールしかかっている麻弥である。
「一度、伸ばそうとしたけど途中で諦めたんだよね」
キッチンで、今は朝食の準備に取り掛かっている孝子も会話に参加する。
「そうそう。伸ばしてしまえば、後は楽、って話だけど、そこに行き着くまでが大変なんだよ。……また挑戦するかな。ああ、でも、風呂が楽なんだよな。乾かすのも」
「それはありますね」
「お前みたいな横着者が髪伸ばしてるの、不思議なんだけど」
「似合わないんですよ。顔が大きくて、全体的にぼんやりしてて」
一応、私も女ですので、と春菜は笑い、次いで、孝子を見た。
「お姉さんは美人で小顔で、ショートがすごく似合いそうですよね」
「無理だな」
返答したのは麻弥だった。
「そうですか?」
「おばさんが許さない。おばさんは長いのが大好きなんだ」
「一度は切ってみたいんだけどね」
「……一度もなかったっけか?」
「ないね」
言外に、福岡にいたころは? と麻弥は問うているのだ。福岡にいたのは九歳までだ。まだ、自分で髪型をどうこう、という年齢ではなかった。亡母が美容師に伝える注文が全てである。亡母も、そういえば髪を長くしていた。即物的な人にも好みはあったのだろうか。
「……そろそろ朝ご飯にしようか」
テレビのない食卓では、会話だけが場の彩りとなる。この時の口火を切ったのは麻弥だった。
「お前、突然、朝にシャワーなんて、どうしたんだ」
「トレーニングをしてたら、汗が出たので」
「ああ、それでか。だいぶ、暖かくなってきたしな」
「あの時間にシャワーってことは、何時ごろにトレーニングしてたの?」
「五時ごろですね。実は、こっそりここでやらせていただいてます」
ここ、とはLDKだ。
「全然、気付かなかった。トレーニングって、何をしてるの?」
「筋トレとストレッチですね。ご一緒にどうですか?」
「ハード?」
「やり方次第では。お二人に合わせてお教えしますよ」
「でも、私たち、邪魔じゃないか……?」
「大丈夫です。黙々とやってると飽きますし。トレーニング仲間をつくる、っていうのも飽きないための有効な手段です」
登校前に孝子と麻弥はトレーニングの一部を見学したのだが、ここで二人を驚愕させたのは春菜の体の柔らかさだった。床に敷いたトレーニングマットの上で、前後左右への一八〇度開脚である。
「なんで、そんなに広がるんだよ」
「正村さん、できませんか?」
「できるか。私は体が硬いんだよ」
「これはトレーニングですね」
こうして麻弥が引き込まれ、それに付き合う形で孝子もトレーニングを始めることとなった。最初こそ、慌ただしさを増した朝と、なかなか取れない筋肉痛との相乗効果で、げんなりとしていた二人も、慣れとともに毎朝のトレーニングを難なくこなせるようになっていった。
「少し腕が太くなったと思わないか?」
「思わない。そんなすぐに変わらないよ」
二の腕を見せて力む麻弥に、孝子は冷淡である。しかし、孝子も、デニムパンツの太もも回りが少しきつく感じられて、おっ、となっていたのだから、とやかく言えたものではない。こうして、麻弥の名付けるところの「春トレ」が、三人の日常に組み入れられたのだった。