第三三九話 回転扉(二五)
孝子の入院は滞りなく終了した。どこにも悪いところはなかった。検査の結果が正常なのは当たり前だ。麻弥と那美にはきつく口止めしておいたので、見舞いも家族以外にはなく、実に静穏な二泊三日を過ごしたのである。ただ、見舞いに訪れた成美から頭を下げられたときだけは、胃痛がぶり返したわけだが。
「先走り過ぎたわね」
しみじみと成美は言ったものだ。そのままでいい、と言われたが、神宮寺家の長老のお出ましに、寝っ転がっているわけにもいかない。孝子はベッドの上に正座だった。
「多分、聞いてないとは思うけど、昔、あの子がお前を養女にしたい、って言ってきたことがあってね」
「美咲おばさまが、ですか?」
初耳だ。成美を案内してきて、そのまま室内にとどまっていた隆行に視線を送ると、小さくうなずいている。
「居候では肩身も狭かろう。結婚する気はないし、部屋住みだし、後腐れのない私が引き取る、なんて息巻いてね。お前なら神宮寺の家に迎え入れても問題ないと思ったし、美幸には静もいるし。私と義兄さんも賛成したんだよ」
成美は一息ついた。
「ところが、美幸が、怒る、怒る。お前のお母さんに託された、大切な忘れ形見を放り出せるか、って。そしたら、美咲も怒る。猫の額みたいな部屋に押し込みやがって、大切な忘れ形見が聞いてあきれる、って。いや、知らないと思うが、裏ではすごかったよ。ねえ、隆行」
「は……」
「お前たち、美咲が言ってこなくても、孝子を養女にするつもりだったのかい?」
「いえ。岡宮の姓を、孝子がどうしたいか。もう少し、この子が大きくなったときに、じっくり話をしよう、と考えていましたので。あの時点では」
「そうかい。じゃあ、二人のいさかいのとばっちりで、孝子は岡宮の姓を捨てさせられたのかね。今回の私も含めて、うちの者たちが迷惑を掛けた」
そう言われても、である。目礼するしかない孝子だった。
「孝子が、家に住まわせてくれ、って言ってきたんですよ。親孝行が飛んだ方向に転がっちゃって」
成美が美咲の口まねを始めた。
「こうなったら、あの家、さっさとぶっ壊したいので、中のもの、全部、捨ててもいいですかね、なんて。いい年したおばさんが、はしゃぐ、はしゃぐ。ああ、今でも、お前への執着が残っていたか、と思うと、ちょいと哀れになってね。孝子の気持ちも考えずに、申し訳ない」
思いやりの交錯が生んだ事態であったとすれば、孝子が不満を抱くいわれはないし、だいたいからして仮病なのだ。その資格もなかった。やり過ごすだけだ。
大型連休が明け、退院した孝子は、海の見える丘に戻った。正午をやや回ったあたりだ。
「あれ。言ってくれたら迎えに行ったのに」
ふらりとLDKに入ってきた孝子を見て麻弥は言った。宅配を頼んだのか、ダイニングテーブルの上にはピザのパッケージが広げられていた。
「検査が、すぐに終わったんだよ」
孝子はソファに腰を下ろした。
「昼は?」
「ピザの耳を切り離して、ちょうだい」
「ちゃんと食べろよ。待ってて。何か作る」
「いや、いい。その代わり、夜を豪勢にしておくれ。生もの。生ものが食べたい」
「病院だと食べられないもんな。わかった」
席を立った麻弥はナイフと皿を手にして戻ってきた。ピザの耳を切り離して、皿に載せていく。
「そういえば、荷物は?」
「DV親父の車に放り込んできた。帰りに持ってきてくれる」
「じゃあ、夜は、出るわけにはいかないな」
「そうだね」
立ち上がり、ダイニングテーブルに着いた。手を伸ばしてピザの耳を取り、もそもそと食べる。
「概算で二〇万超えてて、ええ、ってなったよ」
つぶやきに、麻弥が目を見張った。
「入院費か! 特別室、高いな!」
「今月は散財の月になりそう。もっさんにも五〇万だし」
「なんで、あいつに、そんな」
「犬」
麻弥は眉をひそめた。
「あ。決めたんだ。で、あいつ、金、払え、って?」
声には非難の響きがあった。たっての願いに応じて、とは表面上の話だ。実情は、面倒を見切れないので手放すわけではないか。ふてぶてしい、と怒っているのだ。
「私から言ったんだよ。ぐにゃぐにゃごねてたけど、満額、受け取らないなら絶交するぞ、てめえ、って」
「はあ」
「飼う以上は、完全に私の犬にするよ」
「それがいいか。ロンドも本望だろ」
会話を続けるうちに、昼食は終わっていた。後片付けを済ませると、二人は身支度に取り掛かった。快気祝いのための買い出しに行くのだ。マダイで何かしよう、と麻弥の声が聞こえてきた。旬であり、語呂もいい。うってつけだ。応諾の声を、孝子は張り上げた。




