第三三話 春風に吹かれて(一六)
舞浜大学千鶴キャンパス構内の北端には教職員用の駐車場がある。東西に細長く伸びたスペースには三〇〇台超をとめることが可能だ。学生の利用は基本的に認められていない、この駐車場に、孝子たちは車で乗り入れるようになっていた。勝手に、ではなく、入構許可を得た正規の利用である。乗っている車は、もちろん孝子の愛車、ワタナベ・ウェスタだ。
ウェスタが駐車場を利用できるようになったいきさつは、こうだった。孝子たちは弁当箱として、単体で保温が可能な円筒形のものを使用している。これを、それぞれの昼食分の三つと、春菜の間食用の二つと、計五つを抱えているのは、明確に邪魔だった。そして、気温が高くなるにつれて、持参の弁当には衛生面での不安も発生する。以上の二点から、弁当計画の中止が検討されだしたのだが、ここで春菜が提案してきた。
「車で運びませんか?」
「どこに置くんだよ、車。それに、運ぶのは楽になっても、持って歩いてたら、結局、腐るぞ」
「お任せください」
翌日、帰宅した春菜は夕食の席で入構許可のステッカーを二人に示した。
「これ、貼る場所に大学の規定があるそうなんで。ルームミラーの外側です。警備の方が見える位置に張る決まりです」
「……こんなもの、どういうつてで手に入れたんだ」
「各務先生にお願いしました」
翌朝、孝子たちは五つの弁当箱と共にウェスタで千鶴キャンパスへ向かった。運転していた麻弥は、恐る恐るで駐車場に車を入れていたが、警備員からは一瞥があっただけだ。
「緊張した」
「大丈夫ですよ」
ウェスタのラゲッジに詰めてあった弁当箱の入ったバッグを取り出すと、春菜は手に提げて歩きだした。
「どうするの、それ?」
「各務先生の部屋に運びます。あ、お二人はいいですよ」
「いい、って、お前」
入構許可の件もある。あいさつは、最低限の礼儀だろう。孝子と麻弥は春菜の後ろに従う。各務智恵子教授の教授室は教育人間学部棟の五階だ。教育人間学部棟は、北端の駐車場から最も遠い構内の南西端にある。教授室の室名札は「帰宅」表示になっていた。すると春菜は、デニムパンツのポケットをまさぐり、取り出した鍵で教授室の扉を解錠するや、さっさと中に入っていく。あぜんとして二人が立ち尽くしていると、すぐに春菜は戻ってきて扉を施錠した。
「いないときは、勝手に使っていい、って言われてます。ここなら遠慮なく冷房を使えるので、夏になっても安心です」
一時限目、二時限目が終了し、昼休憩となったところで、合流した三人は再び各務の教授室へと足を運んだ。室名札は「在室」表示だった。
「各務先生、お弁当を取りに来ました」
「ばかたれが。お前、冷房を効かせ過ぎだ」
念には念を入れて、と言い訳をしている春菜に続いて孝子と麻弥も室内に入った。
「失礼します。法学部の神宮寺孝子です」
「商学部の正村麻弥です」
「おう。来たか。美馬の教え子」
意外に狭い縦長の部屋は簡素そのもので、正面にはこの部屋の主、舞浜大学女子バスケットボール部監督各務智恵子の姿があった。出迎えた立ち姿は、痩身をしゃきっと伸ばして、針金のようだ。髪を短くそろえている以外、こざっぱりとしたさまが、各務の教え子にして孝子たちの恩師である長沢美馬をほうふつとさせる。それは、かつてアスリートだった者のたたずまいだ。
「はい。参りました。各務先生、このたびはご配慮をいただきまして、ありがとうございました」
「ああ、いい。助かったのはこっちだ。凡物には決して理解できん、まさに『至上の天才』よ、とは言われてたが、そのとおりだったな」
春菜について言っている、と理解はできるのだが、各務はやや独特な話法の使い手らしかった。
「全然、言うことを聞かなくて困ってたんだ。ようやく、やる気になったらしい。お前たちのおかげだってな」
「おかげです」
大きく頷きながら春菜が答えた。
「連絡先、教えてくれるか」
各務が取り出したのは折り畳み式のフィーチャーフォンだった。最近ではとんと見ないアンテナの突起があり、分厚いボディーには細かい傷も多い。
「私がやりますよ。お姉さん、正村さん、スマホ、お借りできますか」
それぞれのスマートフォンを受け取った春菜が、てきぱきと登録していく。
「先生、入力が遅くて。時間がかかるんですよ」
「なじまんな、いつまでも。ああ、メールはいらんぞ」
「もちろん登録してません」
「出し方がわからんのだ。用があるときは電話で頼む」」
言うなり、各務は豪快に大口を開けて笑った。




