第三三八話 回転扉(二四)
突如として成美に出された重い宿題に、孝子はげっそりとしていた。うつろに一日を過ごし、夜が更けた今は「本家」の書斎でロンドを抱え、寝転がっている。孝子の不調を察してか、ロンドは腕の中でもぞもぞと落ち着かない様子である。
「ケイちゃん。大丈夫?」
机に着いて勉強をしていた那美が声を掛けてきた。
「胃が痛い」
「成美大叔母さんに言われたことを気にしてるの?」
「いくら美咲おばさまのところへでも、おばさまの下から出ていけるわけないよ」
「お母さんも真っ白になってたね。私も、今更、ケイちゃんが親戚のお姉ちゃんになったら嫌だ」
「うん……」
自然と特大のため息が出る。
「ケイちゃん」
「なあに?」
「そのまま寝てて。目を閉じててくれたら、さらにいい」
「え……?」
ロンドがするりと孝子の腕の中を抜け出した。と、いきなり激しくほえだした。
「わんわん、ナイス!」
書斎を駆け出していった那美が、金切り声を上げている。
「ケイちゃんが倒れた!」
犬、うるさい。それに、那美は何を言っているのか。半身を起こし、ぽかんとしたさまは、駆け込んできた美咲と博の目には真に迫って見えたようだ。
二人に見立てられているところに、那美が呼んだのだろう、美幸と隆行もやってきた。大騒ぎである。
「成美大叔母さんがいけないんだよ! ケイちゃんが、どれだけお母さんに感謝してるか、みんな知ってるでしょう! あんな無理難題言われて、どうしていいかわからなくなったんだよ!」
那美が叫ぶ。
「大学受験のときも、何があったのか、よく知らないけど、ひっくり返って入院したじゃない! いつもは堂々としてるけど、結構、メンタルの弱い人なんだよ!」
ひどい言われようだ。噴き出さぬよう、孝子は瞑目してやり過ごすのだった。
二人と一匹の好演により、孝子の移籍話は頓挫した。美咲は成美に遠慮の旨を伝えたそうだ。一安心であった、が。ちと好演に過ぎたようだ。孝子は翌日から舞浜大学病院に放り込まれてしまった。もう大丈夫です、平気です、といくら言っても美幸たちは聞くものではない。那美が言ったように、心因性の不調で入院経験のある孝子だ。この過去が足を引っ張った。
「ケイちゃん。わんわんは私に任せて。ゆっくり休んできてね」
ロンドを抱えて、どう見ても、笑いをこらえている顔の那美が言った。
「……那美ちゃん。覚えてなさい」
「もう忘れた」
入院した日の昼下がりには麻弥が訪ねてきた。
「失礼します」
室内を見渡し、麻弥は孝子に向かって、右手の指を一本、立ててみせた。一人か、というのだろう。
「一人。みんな、いったん、戻ってもらった。今、連休中で検査ができないんだって。寝てるだけだし。ああ。おじさまはしばらく院内にいる、って言ってたけど。那美ちゃんに聞いたの?」
「うん」
ここで麻弥が、にやり。だ。
「う、そ、つ、き」
「あ。全部、聞いた?」
「聞いた。でも、笑ったら悪いか。突然、そんな話をされたって、なあ」
「うん」
「それにしても、びっくりしたぞ。行ったら、病院に連行された、って那美に聞いて」
「愚妹と駄犬が悪い」
「まあ。ぽしゃったんだろ? まずはよかったじゃないか。そういえば、この部屋、静が入院したところだな」
二年前の夏である。全国高等学校総合体育大会バスケットボール競技大会の決勝で負傷退場した静は、検査のため舞浜大学病院に入院した。その時に入ったのが入院棟最上階の、この個室だった。
「そう。多分、大学病院の一番いい部屋だよ。お金のことを考えると、そっちのほうで具合が悪くなる。どうしよう。講義も始まるし」
「正直に話したら?」
「怒られるじゃない。特に那美ちゃんが、ただじゃ済まないよ」
「おじさんなら大丈夫じゃないか?」
「じゃあ、話してきて。絶対に怒られないようにしてよ」
しかし、孝子、数分後に姿を見せた隆行に、頭をこつんとやられてしまう。
「痛あい。麻弥ちゃん、見た!? 暴力おやじ! DV! DV!」
「痛くなかっただろう。もう。人騒がせな」
「だって……」
「まあ、何事もなかったのなら、よかった。本当によかったよ」
父性をあらわにした述懐に、孝子はうつむく。
「ただ、入院は続けてもらわないとね」
「どうして」
殊勝な顔は一転して、眉の角度が急変だ。
「お義父さんと美咲ちゃんは、絶対に検査の数字を欲しがるよ。成美叔母さまも心配してらっしゃるし。美幸ならともかく、あの三人は医者だ。だませないよ」
ぷーっと膨れた孝子に、隆行の後ろに控えていた麻弥が笑いだす。
「笑いごとじゃない」
「おじさん。入院の期間をできるだけ短くなるようにして、あと、請求書を孝子に回してもらえませんか」
「え……?」
「無駄な出費だけど、おばさんに払わせるよりはましだろ?」
「それだ」
孝子の入院は連休明けの朝までとなった。その後、検査を受けて帰宅する。請求書は、わざと作成を遅らせ、隆行が払っておく、と美幸には説明しておくが、実際は孝子が受け取って、払ってしまう。相談の結果、このようなあんばいでの始末となった。けしからぬ秘密の共有に、三者は三様の失笑である。




