第三三七話 回転扉(二三)
夕方近くになって美咲が帰ってきた。
「お帰りなさい。美咲おばさま」
玄関に出迎えた孝子は、あいさつに続いて、早速、同居を願い出ている。
「ほ? ええ。いいよ。いい。どんとおいで」
美咲は応じた後も、しきりに、へえ、だの、ほう、だのを繰り返す。その顔に浮かんだ笑みの奥に、勝手にこの人の心持ちを想像して、孝子は目頭を熱くした。
「美咲叔母さん。私も置いて!」
孝子と共に美咲を迎えた那美の大声だ。
「那美もか! いいよ。そうね。あっちの家は静が継ぐんだろうし。妹同士、仲よくやるか!」
「うん!」
美咲の新居が完成した暁には、孝子がロンドを引き連れて移り住む、と知って那美の鼻息は荒い。
「麻弥ちゃんも来る?」
麻弥は、まだ「本家」にいた。博の話に深い感動を覚え、立ち去り難い、と居残っていたのだ。
「い、いえ。私は、亀ヶ淵にできる寮に入れてもらおうかと思ってるので」
「あら。孝子。麻弥ちゃんたら冷たいね」
「同居人がいると彼氏といちゃつくのも一苦労だもんね。麻弥ちゃん、今日も朝帰りなの、みたいに嫌みを言われなくて済む」
「私は朝帰りなんて一度もしてないだろ!」
「大きな声で情けない告白をしないの」
一〇年来の親友同士の応酬に、神宮寺家の人たちは大笑だ。この日の夕食は、結局、実家には戻らなかった麻弥も一緒になって、大いにかしましいものとなったのだった。
翌日の「本家」の朝食もにぎやかだ。夕食に引き続き、総勢五人が食卓を囲んでいる。特に美咲が明るい。孝子たちは、相次ぐ同居人の決定が彼女の表情を晴れやかにしたものと思っていたが、それは違う。かつて美咲は孝子を養女に欲したことがあった。そのもくろみは姉、美幸のために頓挫したが、孝子の大学卒業とともに捲土重来の機会が巡ってきたのだ。美咲は必勝の念を胸に、老いた父のために、という錦の御旗を掲げて再侵攻を開始した。「本家」建て替えの真相である。
娘の思惑は父にも伝わっていた。万全の進軍のつもりなのだろうが、まだ甘いと言わざるを得ない。どれだけ周到に計画しようと、美咲がじかに孝子に声を掛けた時点で、美幸が不快の念を抱くのは目に見えている。当時の暗闘は博も記憶していた。二人の相克がぶり返さぬよう、娘のために老父が願う体にしたわけだ。
両者の、父のため、娘のためは、全くのうそではなかった。が、割合としては、それぞれ隠し持った、もう一つの要素のほうが強かったことは否めない。当事者同士、終生、口を割らなかったので、外に漏れはしなかったが――。
朝食が済むと、美咲の提案で家の片付けが始まった。片付けといっても、この言い出しっぺ、やたらに捨てたがる。古い家だけに、価値のありそうなものも散見されるわけだが、お構いなしだ。
「美咲さん。捨てる前に、おばさんにも確認したほうが……」
「いいのよ。必要なものだったら、今までに何か言ってきてるって。そうじゃないなら、ここに必要なものはないのよ」
当たるベからざる勢いである。このままでは九割方を廃棄しかねない。
「美咲おばさま。せめて成美大おばさまにご相談してはどうでしょう」
孝子は奥の手を使った。美咲の動きが止まる。神宮寺家の長老の名は、さすがに効果あった。そう、周囲には映った。
「そうね。成美叔母さん、ここにほとんど住んでなかったとはいえ、何か思い出の品とか、残ってるかもしれないね。わかった。聞いてくる」
そう言い置くと、美咲はふらりと車で出ていってしまった。あきれ返った四人は、ただ見送るのみである。
その後、言い出しっぺの不在で手持ち無沙汰となった四人は、片付けの手を止めて、それぞれに散った。孝子は台所で昼食の仕込み、麻弥は自宅に戻り、那美は書斎で勉強、博は自室で書き物だ。
二時間ほどで美咲は戻ってきた。車の後部座席には、なんと成美を乗せている。
「成美さん! おい、美咲! ああ、申し訳ない。せっかくの休日に……!」
「いや。義兄さん。私が連れていけ、と言ったんですよ。それに、こちとら、毎日が休日のようなものだから」
めいたちが建ててくれた老人ホームで、悠々自適の生活を送る成美なのだ。
「那美! 二人を呼んでおいで!」
先代の妹に当たる成美は、当代夫妻にとって、誠に大きな存在である。かつて二人の結婚に反対した先代を屈服せしめ、了解を取り付けてくれた大恩人だ。その人の来訪に、美幸と隆行が「新家」を飛び出してきた。
「成美叔母さま!」
「うん。美幸、久しぶり。隆行も元気そうね」
「はい。ご無沙汰しております」
七〇を超えてなお、かくしゃくとした成美の、すらっとした体が孝子のほうを向いた。
「孝子。義兄さんのわがままで、美咲の老後を見てくれることになったんだって?」
「は、はい」
「え……?」
美幸が身を乗り出した。
「義兄さんに泣き付かれたんですってね。じじいの面倒を見てくれるらしいが、そのせいで美咲には人生を棒に振らせる羽目になった、って。だから、寂しい老後を送る美咲を、孝子に頼んだ、って」
「美咲。あなた、どういうつもり」
「私じゃないよ。お父さんが言ったの」
「騒がない。義兄さんの面倒なんて、本当ならお前が見なくちゃいけないんだ。それを、代わりにやってくれてる美咲に孝子を出したって、罰は当たらないでしょうよ」
ぴしゃりと言われて、美幸はうつむいた。
「美咲。孝子に重荷を背負わせるんだ。きちんと報いないといけませんよ。義兄さんは大してお金は持ってないだろうし、お前が責任を持たなくちゃね」
「それは、もう」
「新しくするっていう家も、義兄さんの都合ばかりじゃなくて、若い子にも使いやすいようにね。……孝子は法学部だったね」
「はい」
「養子を、再度、養子に出す、ってできるのかしらね」
「成美叔母さま!」
色を失ってた美幸が、さっと顔を真っ赤にして詰め寄るが、神宮寺家の長老はびくともしない。
「美咲が孝子に報いる最も簡単な方法でしょう。美咲なら名字も変わらないし。悪くないね。孝子、すぐにわからないなら、調べて、私に知らせて」
さすがの孝子も凍り付いていた。いざともなればものすさまじい人と聞いてはいたが、その実態を目の当たりにして、声もなし。
「さて。せっかく久しぶりに帰ったんだ。中を見せてもらおう」
成美が前に鶴ヶ丘を訪れたのは、神宮寺家の先代である実姉の美栄との対決のため、およそ二〇年前だ。その時も大旋風を巻き起こしたが、今回も、また、なんとも激しい帰還となった。




