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未知標  作者: 一族
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第三三六話 回転扉(二二)

 四月末から始まった大型連休も半ばが過ぎた。ここまで孝子は、カレンダーの文字の赤い日には、全て鶴ヶ丘の神宮寺「本家」に出向いていた。赤が連続したときは泊まり込みである。赤柴、ロンドの世話をするのだ。

 鶴ヶ丘にはロンドにべったりの那美がいる。世話を頼もしく引き受けてくれた麻弥に任せてもいい。預かりはしたものの、ロンドにそこまで親近感を持っているわけでもなかったので、当初は二人を存分に使うつもりの孝子だった。

 そうもいかなくなったのは、快く部屋の貸し出しを承諾してくれた美咲が、自らの書斎を空けていてくれたためだった。そこまでしてくれる必要はなかったが、厚遇に対して素知らぬふりはできない。自分の名で申し入れた以上は仕方なかった。

 この日の到着は午後になった。海の見える丘の雑事を完了させるのに手間取った。ここからの四日間は赤文字の日である。長居になるため、念入りに片付けてきたのだ。

「またいるよ」

 実家で過ごすべく同行してきた麻弥が笑った。「本家」の玄関は引き戸だ。そのすりガラス部分にロンドの姿が映っている。

「利かん坊め」

 たたきまで下りてきているので、足を拭かなければならない。式台があるとはいえ、子犬の体型を考えれば、段差はできるだけ回避すべきなのだ。この二点から、出迎えは無用、と言っているのだが、ロンド、孝子がやってくるたびに出迎える。

「他は怖いくらい聞き分けるのに、あれだけ聞かないよな」

「忠節に反する命令は聞けないんじゃないかい」

 声は祖父の博だ。廊下の網戸越しに姿が見える。二人の声が聞こえて、顔を出したのだ。

「こんにちは。ああー。そういう理由だったら、納得です」

「でも、おじいさま。あの犬、私の犬じゃありません」

「一緒に暮らした期間なら、もう孝子のほうが飼い主の子より長いんだろう?」

「小早川っていうんですけど。どうも、行き当たりばったりで」

「頼るべきボスを見つけたのかな。ああ。孝子。すぐじゃなくていいけど、車、もう少し奥に入れておいて。美咲が出てるんだ」

「あ。じゃあ、先に買い物に行くか?」

「そうだね」

「急がなくていいよ。大工のところに行ってる。しばらく帰ってこないよ」

 美咲は老父の今後を考えて、「本家」をバリアフリー住宅に建て替える計画を温めている。その絡みと思われた。

「あまり犬を待たせたらかわいそうだ。入っておいで」

 玄関を開けるとロンドが進み出てきた。

「悪がき」

 叱責と同時にすくい上げる。

「麻弥ちゃん。シートを持ってきてくれる?」

「おう」

 玄関脇の書斎に入っていった麻弥は、すぐにシートのパッケージを抱えて、そろそろと出てきた。

「どうしたの?」

「那美が寝てた」

「しかし、孝子が怒る気持ちもわかるな。私が座って、ちょうどいい高さだ。犬の大きさじゃ厳しいね」

 のっそりとやってきた博が、上がりかまちに腰を下ろした。

「那美も、この子が部屋を出られないようにしておかないと」

「そうだ。おじいさま。相談に乗っていただきたいことがあるんです」

 麻弥と二人でロンドの足を拭いながら孝子は言った。他でもない、赤柴のロンドについて、だった。ロンドをもらい受けて那美に送りたい、と静が言い送ってきたのだ。孝子がロンドを預かったいきさつを聞いて、譲ってくれ、と基佳に頼み込んだらしい。那美が赤柴に対してただならぬ愛着を抱いている点と、今後も基佳はロンドに対して十分な世話ができないであろう点、以上が理由だった。致し方なし、と基佳も受諾したとか。

 いったん預かる、と孝子は話を止めていた。静の言い分はわかった。基佳については、そうなるだろう、と孝子も予想する。問題は那美だ。今は、物珍しそうに赤柴の世話を焼いているが、いつまで続くか。浮ついた性質の義妹だ。一個の生命を預かる者として信じていいものか。

 那美が飼育に飽きた場合、静に責任を取らせる、とはいくまい。一個の生命と相対するのだ。それこそ基佳のように不十分な覚悟で臨むなど言語道断である。いっそ、自分が名乗りを上げるか、とも思うが、今度は、持ち前の恬淡が障りとなる。どうしたものか。

 小声で語る孝子に、突如、ロンドがむしゃぶりついてきた。

「何。いきなり」

「お前がいい、って言いたそうだね」

 今度はロンド、博の足に擦り寄っている。

「ほら。……那美は、孝子の言うとおりの子だと思うし、引き受けるなら、孝子がいい、と私は思うよ」

「はい」

「そういえば、美咲が大工のところに行ってる、って話したろう。車いすのまま入れるぐらいに段差をなくす、って息巻いてるよ」

 話が飛んだ。

「はい。バリアフリーにこだわった家を、っておっしゃってました」

「こんなじいさんに、そこまで気を使わんでもいいのに。まあ、せっかくのあいつの厚意だ。とやかく言ったりしないがね。まあ、それはいい。今は、犬の話だ。車いすが大丈夫なら犬だって大丈夫だろう。孝子、この子と一緒に、ここに住んでみないかね?」

 驚くべき申し出だった。とっさには、いやとも応とも言えず、孝子は目を見開くしかない。

「実は、気になってることがあってね。話を聞いてると、あいつ、どうも、やたらに大きな家を考えているみたいなんだよ。車いすどころかベッドでも廊下を通れるぐらいに、とか言って。ただ、なあ。私もいいじいさんだ。この先、何十年も生きてるとは思えないんだよ」

 父がこの世を去った後、娘はどうするのか。世間に例は絶無ではないにせよ、新たな人生を始める、とは、なかなかなるまい。そもそも覚悟を決めたからこそ、父と共に暮らす家を、と考えたはずだ。だだっ広い家で娘は独りぼっちの生活を送るつもりに違いなかった。

 永劫に、とは言わぬ。誰かと好き合い、所帯を持つまででいい。一緒に暮らしてはくれまいか。そして、かなうなら、その記憶を胸にとどめて、家を去った後にも、ちょくちょく顔を出してほしい。いずれ、その訪いが娘の慰みになるはずだった。娘の未来が孤独なものではないと想像できれば、父の心は安らぐのである。犬のついでに検討してもらえたら重畳だ――。

 博の話を聞き終えたとき、孝子の目は潤んでいた。犬のついでなどと、とんでもない。娘と父のため、孝子は博の申し出を受けると即断していた。

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