第三三三話 回転扉(一九)
基佳がそろえていた飼育道具は、いずれも立派で、孝子の車には入りきらなかった。島津家の車も用いての二台体制になる。といっても、島津家の車は、車高の低いスポーツカーだ。ほんのわずかしか荷物は積めない。
「車、買い替えるかな」
配分に苦慮する孝子と麻弥を見た基佳の父のつぶやきであった。
鶴ヶ丘に到着すると、「新家」の勝手口から那美が飛び出してきた。島津家の車の、スポーツカーらしいエンジン音で気付いたようだ。
「うるさいのは、そのひしゃげた車? 麻弥さん、買ったの?」
「買えるか。高いんだぞ、この車は。それよりも、那美。かわいいのがいるぞ」
「何?」
麻弥はウェスタのバックドアを開けた。ラゲッジに置かれたペットキャリーの中にロンドが寝そべっている。
「わんわん!」
「そう。わんわん。小早川のなんだけど、あいつ、今、アメリカに行ってるんだよ。で、預かってきた」
「麻弥さん。早くわんわんを外に出してあげて。狭くてかわいそう」
「そうだな。孝子。ここなら外に出してやってもいいかな」
神宮寺家の広大な敷地を見渡しながら麻弥が言った。周囲には塀が巡らされている。子犬が外に飛び出す心配はなかった。
「一応、リードはしておいたほうがいいね」
早速、ペットキャリーが下ろされた。ロンドはキャリーから出てくると、孝子の前でぺたりだ。首輪を首に回してもおとなしい。着けやすいようにとしているつもりなのか。顔を上げてさえいる。
「わんわん、お利口!」
さらに孝子はリードを首輪と接続し、その持ち手を那美に渡した。
「しばらく遊んであげて。犬。那美ちゃんと一緒にいて。那美ちゃんはこの子。いいね」
孝子が示すと、ロンドは那美のほうにくるりと向いて、その足元に寄った。
「すごい! わんわん、ケイちゃんの言うことがわかるんだ!」
「那美ちゃん。お願いね」
「ケイちゃんたちは?」
「こやつのホームステイ先を整備する。美咲おばさまが部屋を貸してくださるの」
那美がかっと目を見開いた。
「ケイちゃん。私も手伝う。麻弥さんがわんわんと一緒にいて」
「いいけど」
「ケイちゃん、ずっとこっちにいるわけじゃないよね? ケイちゃんがいないときは私がわんわんのお世話をする。いいでしょう?」
「いいよ。大歓迎。じゃあ、麻弥ちゃん、お願い」
麻弥とロンドが敷地の南東部にある庭園に向かうのを見送り、孝子と那美は「本家」を訪ねた。
美咲が用意してくれていたのは「本家」の東側、玄関脇にある書斎だった。
「美咲おばさまのお部屋じゃないですか」
「いいよ。私は向こうで寝る」
美咲は建物の西側を指す。
「もし鳴かれても、距離があるし、なんとかなるでしょう」
「美咲叔母さん。この部屋でわんわんと一緒に暮らしてもいい?」
「那美がお世話するの? いいよ。汚しても構わないよ」
「いいえ。絶対に汚しません」
「気にしなくていいよ。そろそろつぶすしね。この家」
この言に、孝子は思い至った。
「美咲おばさま。建て替えのお話ですか?」
「うん」
昨年の話だ。老父の今後の生活を考えて、バリアフリー住宅への建て替えを検討している、と美咲はぶち上げていた。
「ばっさりやったらいいよ。ここでご飯食べるの、私、嫌い」
神宮寺家では、慶事を日本家屋の「本家」でやる。その際に使われるぶち抜きは畳張りだ。正座。座椅子。どちらも苦手。那美の主張だった。
「うん。ばっさりやるよ。期待してて」
「でも、この家って、古くて、立派で、少しもったいない気もしますね」
「設計を頼んだ棟梁も、同じように言ってたんで、くれてやることにしたわ。移築っていうの? ものすごいお金がかかるみたいだけど。私が払うわけじゃない。好きにしたらいい」
大笑した美咲は、設計図が上がってきたら見せてあげる、と言って去った。
孝子と那美はペット用の養生に取り掛かった。那美がてきぱきと動いて、作業は素晴らしくはかどった。ものの五分といったところだ。世話も買って出てくれて、孝子にとっては、ありがたい限りである。
「これぐらいでいいかな」
ペットサークルを中心に、シートを十重二十重に配した。壁にも貼って、跳ねへの対策も万全だ。
「呼ぼうか」
「呼んでくる!」
叫んだ那美が動こうとした矢先だ。玄関先から、ワン、の鳴き声である。
「わんわん、来た! 終わったのがわかったんだ!」
「偶然でしょう」
「孝子。終わったか? こいつに引っ張られて来たけど。まだだろ?」
麻弥の声に、にんまりと那美は孝子を見る。
「終わってるよー! わんわん、入っていいよ!」
「待って。麻弥ちゃん。足を拭いて」
二人が玄関に向かうと、ロンドが右前足を、ひょいと上げて待ち構えている。
「何をさせてるの」
「私じゃないよ。足を拭く、って声が聞こえたんだろう」
「わかるわけないでしょう。犬。ここに乗って」
孝子はたたきにシートを広げた。わかるわけない、と断言したくせに何をやっているのやら、であったが、ロンドは迷いなくシートの上に立つ。その後、孝子がロンドの足を拭き、そのまま抱えて書斎へ運んでいくさまを、麻弥と那美はあぜんと見送ったようだ。
「本気で、わかってるっぽいよな」
「うん! すごい! わんわん、賢い!」
一人と一匹の不思議な感応に、最初に気付いたのは、この二人だったのである。




