第三三二話 回転扉(一八)
麻弥のたたいた陰口が現実のものになったようだ。本当に行き当たりばったり、という、あれである。
全日本女子バスケットボールチームがアメリカ遠征に出発した――すなわち基佳も渡米していった――その翌日になる。基佳の父から孝子に連絡が入った。犬が逃げ出した、と。
よくよく聞いてみれば、逃げ出した、といっても家の中だった。どこにいるかもわかっている。が、触れるのに抵抗がある。どうやってペットハウスに戻せばいいのか、途方に暮れているのだ。誠に申し訳ないが、助けてもらえないだろうか。
「そこまで嫌いな人に任せるなよな、あいつも」
「おじさまの弱みなんだろうね。せっかく帰ってきてくれたんだ。もう手放したくない、っていう。だから、苦手でも受け入れたんだよ。きっと」
夫人との離婚で、一時期、娘とは生別状態にあった基佳の父であった。
「だろうな」
向かうのは孝子と麻弥だ。春菜も佳世も不在で、のんびりとした休日の昼前だった。二人ともすぐさま自由に動ける。
「やあ。助かった。よく来てくれました。ありがとう。ありがとう」
島津家に到着するや、ドアホンを鳴らすよりも前に基佳の父が出てきた。今や遅しと待ち構えていたようである。
「せっかくの休日に、本当に申し訳ない」
そう言って、基佳の父は二人に向かって深々と頭を下げた。大の大人があぐね果てている様子がありありと見て取れた。
屋内に入ると、階上から鳴き声だ。少しくぐもって聞こえる。
「納戸に入っていったんで、そのまま扉を閉めたんだ」
基佳の父は言った。なかなかにひどい。
孝子と麻弥は二階に上がった。上がってすぐの引き戸が納戸だ。開けた途端に飛び出して、階段を転がり落ちぬよう、麻弥が背後を固める。
「おーい。犬ー。開けるよ」
そろそろと開けていくと、暗がりの中にロンドがちょこなんとお座りしていた。騒ぎの元凶だが、さすがの孝子もどやすのはためらわれた。かといって、ここに閉じ込めた人を責める気にもならぬ。生理的な好悪の念は、いかんともし難いものだ。
孝子はロンドをすくい上げた。そのまま納戸の隣にある基佳の部屋に入っていく。広々とした部屋には、ペットサークルで区切られた一角があった。ロンドのためのスペースだ。このペットサークルは背が相当に高く、またいで中に入るのは難しい。脱走の原因が、これだった。掃除をするために扉を開けたところで、やられたのだ。
ペットサークルの中に戻すと、ロンドは孝子を見上げて、クーンクーン、を繰り返す。
「麻弥ちゃん」
「うん?」
「大きな声じゃ言えないけど、悪いところに来たね、この子は」
「ああ……」
「ちょっと待ってて」
孝子が言うと、クーンクーン、がピタリとやんだ。
「どうするんだ?」
「取りあえず、おじさまに報告に行こう」
一階に戻ると、二人はLDKに導かれた。よかったら昼食を、との誘いに応じて、リビングのソファで待機する。
「海の見える丘は無理だし、おじいさまと美咲おばさまにお願いしてみようか」
孝子は小声で言った。
「あ。預かるのか」
「一部屋ぐらいなら貸してもらえると思うよ。臭いとか汚れが付かないように、シートなんかでしっかりと保護しないと。手伝ってくれる?」
「もちろん。世話も、手伝うよ。お前、毎日、鶴ヶ丘に行くのはつらいだろ?」
「それは、まあ」
メッセージを送ると、返事はまとめて返ってきた。
「いいよ。お父さんもいいって」
美咲は、実にあっさりとしたものだ。
そうこうするうちに、基佳の父の謹製プレートが出てきた。鶏肉のソテーをメインに、野菜をふんだんに使ったものだ。孝子も麻弥も料理は達者である。だが、プロの腕前はさすがに違う。ひとしきりの感嘆の後は質問攻めだ。
「おじさま」
質疑応答が終了した、食後のコーヒーの最中だった。
「うん」
「あの犬、私たちが預かりましょうか」
「え!?」
基佳の父の変貌ぶりはすさまじかった。見る見る喜色があふれてくる。
「本当に!?」
「おじさまにはお世話になってますし。あの子もふびんなので」
「うん」
基佳の父はうなずいた。
「ぜひ、お願いします」
「わかりました」
「しかし、ありがたい。本当に、ありがたい」
「では、早速、取り掛かります」
孝子はおもむろに立ち上がった。犬だけを連れていっても、預かる用意がない。身の回りのものを、全て借り出す必要がある。基佳の部屋にあったペットサークルなどは、なかなかに立派だったではないか。どうやら大仕事になりそうであった。




