第三三一話 回転扉(一七)
幸区緑が丘に向かって走るウェスタには、孝子、麻弥、みさとの三人が乗り込んでいる。基佳から夕食の招待を受けての訪問だった。この顔ぶれは、先月末の基佳の引っ越しに骨を折った者たちである。退寮の期限ぎりぎりまで荷造りを怠り、にっちもさっちもいかなくなったところで、駆け付けてくれた友人たちのための宴、というわけだ。
「今日は、お昼を抜いちゃったよ」
後部座席に座ったみさとが言った。夕食といっても基佳の作ではない。彼女の父の作だ。彼は店を構えるほどの料理人である。忘年会で店を利用して、その腕前は把握していた。それだけの価値のあるものが出てくることは間違いないのだ。
「実は私も。ああ。腹が減った」
孝子は手を伸ばして、助手席の麻弥の首を絞めた。
「意地汚いぞ」
「だって、おじさんの料理、本当においしいじゃん。私たちも、結構、できるほうだとは思うけど。やっぱり、プロは違う」
「それは、そうさ」
島津家への到着は午後八時を少し回ったころだった。基佳の両親は離婚している。基佳の実家が島津なのは、このためだ。
「ようこそー」
出迎えた基佳が、両手に何やら抱えて出てきた。赤柴だ。クーンクーン、と鳴いている。
「おおー! 柴じゃん!」
みさとが顔を寄せた。
「前はいなかったですよね?」
「今日。午前中に受け取ってきた」
「おおー。でも、結構、育ってるね」
みさとは、ほとんど顔と顔が触れるぐらいまで赤柴に接近している。
「うん。六カ月。しっかりしたブリーダーさんで、六カ月より早くは絶対に渡せない、って言われてて」
「ああー。でも、わんこのためには、それがいいよ。名前は?」
「ロンド」
基佳の腕の中のロンドは、しきりに前のめりになっている。顔は孝子のほうを向いているようだ。
「このお姉ちゃんがいいのかなー?」
「近づけないで」
「あ。嫌い……?」
「好きでも嫌いでもない。興味がない」
「こっちのお姉ちゃんは大好きよ。抱っこさせて」
受け取ったみさとは、頬擦りしたり、幼児語で話し掛けたり、とろけそうなありさまだが、依然としてロンドの関心は孝子に向いているようだ。もぞもぞしっ放しである。
「ねえ。抱っこしてあげてよ」
「甘えたら、なんとかなる、とは思わないことだよ、犬。これは、しつけ。ありがたく、ちょうだいしろ」
「うわ。最低」
わいわいとやりながら四人は屋内に入った。置いてくる、と言って、基佳はそのまま二階に上がっていった。みさとも一緒だ。
LDKでは基佳の父が夕食の準備に忙しく立ち働いていた。孝子と麻弥はあいさつのために、彼のそばに立った。
「あれ。基佳は?」
「上に」
「ああ。犬か」
「お嫌いですか?」
孝子は小声で問うた。犬か、と言ったときの表情を見た上での類推だった。
「……うん。小学生のころに、犬が飼いたい、ってねだられたんだけど、僕もだし、あれの母親も、嫌いでね。基佳としたら念願かなったり、だ」
「そうだったんですか」
「仕方ないね。戻ってきてくれたんだし。お金も自分で払ったんだ。ああ、でも、基佳、すぐにアメリカに行くんでしょう? その間は僕が世話しなくちゃいけないのかね……」
全日本女子バスケットボールチームの第一次強化合宿は、昨日で終わった。間髪を入れずに第二次強化合宿が始まる。次はアメリカ遠征だ。これに基佳も取材のために同行するのである。
「もっさん、アメリカに行く予定が入ってるのに、あの犬を連れてきたんですか?」
「もう少しだけブリーダーのところに置いておいてくれたらよかったのにね」
二人は勧められるまま、リビングのソファに腰を下ろした。麻弥が孝子のほうに体を傾けてきた。
「引っ越しのときもそうだけど、あいつは本当に行き当たりばったりだな」
「おじさまと、あの犬が気の毒だね」
ぼそぼそやっていると、扉が開き、例の赤柴を抱えた基佳とみさとが入ってきた。ロンドは、また孝子のほうをうかがっている。
「ごめん。なんか、この子、異常に寂しがって」
「ふうん」
孝子は手招きした。基佳が近づいてきた。ロンドを受け取る。
ブリーダーの元からやってきたばかり、と聞いた。確か、半年、だったか。犬の年齢を、どう人の年齢に換算したらいいのか、よくわからぬが、まだ幼いはずだ。そして、彼だか彼女だかが飼われているのは、無計画の気がある主と、犬嫌いな、その父親の組み合わせだった。この犬は、おそらく安穏とした生活を送れまい。そう考えれば、そぞろ哀れを催してくる。
膝の上に乗せると黒い瞳が見上げてきた。なで回しているうちにロンドは丸くなり、いつしか眠りに付いたようだった。




