第三二六話 回転扉(一二)
「中村塾」の活動が終わりを告げる――。
仮だったはずの名称は、いつしか正規のものとして扱われるようになり、はや半年余りが過ぎた。三月末日の、時刻は午前一一時だ。普段は朝一から動きだす「中村塾」も、最終日の今日は午前も遅くなっての始動という。軽めのメニューの後には閉塾式が執り行われる。さらに、その後は黒須が肝いりのパーティーだ。なじみのレストランからケータリングを呼び寄せて、参加者、関係者、そして、ジャーナリストたちも参加を許される大規模なものになるとか。大団円にふさわしいといえた。
だが、そのパーティー、実は画竜点睛を欠いている。開塾の立役者の一人といっていい人物が不参加なのだ。神宮寺孝子である。
孝子は海の見える丘に居残って勉強だった。相性の悪い黒須が大きな顔をしている場になど、絶対に行かない、と思っている。
それに、だ。華々しいお披露目によって「中村塾」は大いに衆目を集める存在となった。関係者も機運到来とばかりに広報に走る。マイナースポーツとして当然の動きだ。結果、『中村塾』への取材申請が殺到し、このところの重工体育館はジャーナリストでごった返しているらしい。もちろん今日も、だろう。雑踏は嫌いな孝子だった。
勉強が一段落したところで、孝子は自室を出た。空腹になってきたので食事だ。食事といっても、孝子一人である。春菜、佳世に加えて麻弥も重工体育館に出掛けている。自分だけのために手の込んだものをこしらえる気にはならない。トマト一個と牛乳一杯で手早く済ませて、自室へと舞い戻る。
「中村塾」の活動が終わりを告げる――。
参加者たちは短いオフの後、「中村塾」が衣替えした全日本女子バスケットボールチームに参加する。衣替え、とは先に行われた全日本女子バスケットボールチームの始動ミーティングにおいて、中村が下した決断だった。世界二位のオーストラリア代表を撃破した「中村塾」に付け入る隙はない。人員の追加は不要。このままいく。これだ。
衣替え後の活動場所は、東京都北城区の国立トレーニングセンターに移る。ここを拠点に全日本の合宿は、世界最終予選会の開催される六月末まで、ほぼ休みなく実施されるのだ。何度かの海外遠征も組み込まれている。海の見える丘の一員である春菜と佳世も出ずっぱりだ。
これは、孝子たちにとって大きな変化といえた。昨年の八月に始まった目まぐるしい生活も、また終わるのだ。重工体育館への送迎や、大食漢たちの食事の用意など、実に繁多であった。特に時間を取られたのが送迎だ。平時で一時間、混雑に巻き込まれると二時間近くが空転する。たまったものではない。
孝子は先ほどまで開いていた民法の基本書を手に取った。手隙となった時間には、勉強、勉強、だ。再び、文字の海へと飛び込もうとした、その時、スマートフォンに着信だった。画面には麻弥の名が表示されている。
「はあい」
「車、使う?」
なぜか麻弥は小声だ。
「は?」
「使うよな? ないと不便だよな?」
懇願の調子である。
「帰りたいの?」
「うん。お前に呼び出された、って帰る」
「何かあったの?」
ちょうど閉塾式が終わり、参加者たちは汗を流すため、いったん退出していったところ、という。三〇分後にパーティーだ。この間隙で、麻弥は周囲のジャーナリストたちに大もてとなったらしい。麻弥も孝子と同じく雑踏は好まぬほうだが、春菜と佳世に誘われ、パーティーに参加しようとしていたのだ。そこに食い付かれた。麻弥は思わず声を掛けたくなるような美貌の持ち主だ。それは、大もてだろう。同時に、そういう場面で、きびきび相手をさばける麻弥ではない。困り果てた上での電話に違いなかった。
「わかった。ちょっと、麻弥ちゃん。車がなくて不便なんだけど。おはるたちは静ちゃんにでも任せて、帰ってきて。すぐに」
「うん。帰る」
「帰ったら、二人で打ち上げしよう。送り迎えとかお料理とかで、私たちもよくやった」
「うん。よくやった。よし。急ぐ。じゃあ」
通話は終わった。
さすがにカラーズは全日本の活動に関わらない。自賛できるほど人ごとに力を尽くすような経験は、これからの人生で、そうそうありはしないだろう。平穏への回帰には、少しだけ寂しさも――渋滞でのクラッチワークや四人分の食事の準備に大わらわとなった記憶をよみがえらせ、感じない、と孝子は思い直した。
「中村塾」の活動が終わりを告げた――。




