第三一七話 回転扉(三)
孝子は自室の机に着いて、刑法の基本書を読み込んでいた。なので、その着信に気付いた。海の見える丘にいるときは、常にスマートフォンを充電スタンドに置きっ放しの孝子だ。おまけにマナーモードに設定しているので、目の前にない限りは着信に気付かない。
見ると発信者は、伊澤さん、とある。静の後輩だが孝子とは、ある程度、年齢も離れていて、そこまで親しい間柄でもない。初めてかかってきた電話だ。何か、あったのだろうか。孝子はスマートフォンを手に取った。聞こえてきたのは那美の声だった。神宮寺家の姉妹は、家庭の方針で高校を卒業するまで携帯電話に類するものを与えられない。つまり、この電話は那美がまどかに電話を借りた上で、かけてきたものなのだ。何か、あったらしい。
通話を終えた孝子は自室を出た。LDKでは麻弥が夕食の下ごしらえをしていた。春菜と佳世は「中村塾」で不在だ。
「おーい」
「うん?」
包丁業の発揮中だった麻弥は、手を止めて顔を上げた。孝子の声の微妙な陰影に気が付いたようだ。
「どうした?」
「那美ちゃんから電話があってね。長沢先生がバスケ部の指導を、しばらく自粛することになったらしいんだけど、なんとかならないか、って」
「は? え? 本当に、何が、あった?」
「高遠さんが、お酒飲んで、ひっくり返ったんだって」
実際は、ひっくり返った、という表現より、もう少し大ごとだった。高遠祥子は飲酒の末に昏睡し、病院に搬送されていた。高鷲重工の寮内での飲酒が原因である。親しくしている先輩に勧められ、飲み過ぎ、泥酔の揚げ句に廊下で倒れていたところを、別の先輩に発見されたのだ。幸い、大事には至らず、祥子は退院し、寮に戻ってきたが、もちろん、それで落着とはならない。その、落着とならなかったうちの一つが、長沢の自粛である。
「那美の、なんとか、って、黒須さんを頼れないか、って話か?」
「だろうね」
「どうする?」
「どうもしないよ」
「え……」
「勘違いしないで。もう話が病院っていう外部に出てるんだよ。もみ消そうとしても、多分、もみ消せない。ばれたときのリスクを考えたら、何もしないほうがいい」
「ああ……。そういう……」
うなずき、麻弥は再び包丁業に戻った。と思いきや、そのまま静止だ。
「重工も、騒ぎになってるだろうな」
「だね」
二人の予想どおり、高鷲重工アストロノーツは、渦中だった。アストロノーツ部長の木村忠則が、関係各所を駆けずり回っている。彼の懸命な活動の目指すものは、何はなくとも長沢が自粛を解く根拠を築き上げることであった。管理不行き届きはアストロノーツの責だ。部外者に傷を付けるなど許されない。
木村の奔走の結果、長沢の処分は、所属長からの口頭注意、となった。これに上書きされて指導の自粛は、ちゃら、となる。
要務を全うした木村は、休む間もなく関係者の処分に取り掛かった。祥子と祥子に飲酒を勧めた須藤菜穂は一週間の謹慎だ。謹慎の解除後は各種講習を受講し、十分な省悟が認められた段階で復帰させる旨も併せて発表した。締めくくりに、自らに再発防止プログラムの提示を課して、騒動は終結だ。処分、説明の迅速さに助けられ、高遠祥子の飲酒事件は過度の注目も浴びずに、淡々と人々の記憶の中にうずもれていったのであった。
事件のほとぼりが冷めたころ、孝子は麻弥と共に鶴ヶ丘高校を訪ねた。長沢を見舞うためだ。三月中旬の一日、その昼時である。あらかじめ来意を告げてあったので、長沢は車両門のそばで待ち構えていた。
「待ってたぞ。『英』のお弁当」
車を降りた二人に長沢が肉薄してくる。昼を一緒に食べたい、すしの名店「英」の特上仕出し弁当を持っていく、と孝子は長沢に予告していた。
「寒いのに、ずっと待ってたんですか? まあ、元気そうで、何よりなんですけど。げっそりしてたら、どうしよう、って思ってましたよ」
麻弥が、ほっと語っている。
「いや。内心ではげっそりだよ。静には、聞いたか? あの子たちと食事したとき、高遠、明らかに浮ついてたもんね。……取りあえず、中だ」
二人は応接室に通された。直ちにテーブルの上に弁当が広げられる。
「わお。おいしそう。よし。早速、いただくぞ」
一口、二口、といって長沢は箸を止めた。
「あらかじめ申し送っておくべきだったんだよね。お前たちは直接の知り合いじゃなくて、知らないかもしれないけど、あいつの家は、あまり裕福じゃなくてね」
長沢の言ったとおり、孝子は祥子と直接の知り合いではない。が、入店したことはなくとも、彼女の両親が経営するラーメン店の構えで、おおよそ想像はできる事実だった。よって、無反応を貫く。麻弥も、おそらくは、同じだ。
「稼ぐようになったら、反動で、きっと羽目を外すだろうな、って。まあ、羽目どころか、一歩間違ったら、人生から外れてたかもしれないんだし。本当、げっそりだよ」
「お察しします」
「うん。幸い、ね。大事には至らなかったし、本人も反省してた。これを機に心を入れ替えて、しっかりやるでしょう。こんなところか」
「はい」
「よし。次は、お前たちの番だ」
長沢が手を打った。
「私たち、ですか?」
「面白いこと、始めてるんだってな。私にも教えて。場合によっては、交ぜて」
「舞姫、ですか?」
「交ぜて、って?」
口走った孝子と麻弥は、次の瞬間、最大級の驚異に接する。長沢の舞姫参加表明だ。見舞いも、祥子も、もはや消し飛んだ。正しく、それどころではなくなっていた。




