第三一五話 回転扉(一)
三月一日には、みかん銀行シャイニング・サンの日本リーグ脱退と神奈川舞姫によるチーム継承が、日本女子バスケットボールリーグから速報された。詳細については、後日、行われるであろう当該チームの発表に譲るとして、この時点でめぼしい情報は公開されず、従って、大きなムーブメントとはならない。これは舞姫側の関係者のほとんどが「中村塾」の一員である事実に由来した。塾の活動は、佳境と目されるオーストラリア遠征を控えている。今は、そちらに全精力を注ぐべし、という配慮である。
同日の夜、静は後輩、高遠祥子の高校卒業を祝う食事会を催していた。招待するのは祥子の他に須之内景と伊澤まどか、鶴ヶ丘高校女子バスケットボール部顧問の長沢美馬、以上四人だ。会にかこつけて現役の三人を舞姫に誘う狙いがあった。長沢には三人への助言者を擬するつもりだった。
食事会の会場は小磯駅そばにある「ア・ラ・モート」だ。かの小早川基佳の父が経営するフレンチレストランは義姉の孝子に紹介された。
煌々たる月夜、長沢の退勤を待って、静、景、まどかの鶴ヶ丘組は「ア・ラ・モート」を訪れた。祥子だけは卒業式が済むなり、所用が、と姿を消して現地で合流する。
「ここが小早川のお父さんのお店か」
木製の巨大な扉を前にして長沢が言った。
「調べたんだけど、かなり有名なお店だってね。よく予約が入れられたじゃない」
「お姉ちゃんが言ったら席が空くみたいです」
「小早川にむちゃを言ったのかね」
「お待たせしました」
祥子の声に皆が振り返った。
「お前……!」
長沢は絶句。
「先輩! 髪、どうしたんですか!?」
まどかは驚倒。
静と景もあぜんとしていた。祥子のロングヘアには、見事なオレンジのメッシュが入れられていたのだ。昼間、会ったときには、なかった。
「派手なの入れましたね……!」
まどかが顔を寄せて、しげしげと見ている。
「本当は、ゴールドを入れたかったの。でも、アストロノーツの内規で、あんまり派手なのは駄目、って。仕方ない。これで我慢」
「それだって、十分でしょうよ! なんか、格好も派手になってるし。私の知ってる先輩はどこに!」
白のノーカラーコートに同じく白のニット、ピンクのワイドパンツ、といういでたちは、夏はTシャツとデニムパンツ、冬はフリースジャケットとデニムパンツ――これだけで祥子が回していたころと比べれば、確かに派手だ。
「須藤さんに紹介してもらったんだ。髪も、服も」
須藤菜穂はアストロノーツの先輩の名である。
「おおー。須藤さんに! なじんでますね!」
「……取りあえず、中に入ろう」
騒ぐ二人を長沢が促した。
「ア・ラ・モート」の中では島津シェフが娘の親友の妹と娘のかつての担任とを丁重に迎えた。
五人が通されたのは奥の個室だ。慣れぬフレンチレストランの雰囲気から、ひとまずは解放されて、全員、ほっと息をつく。
「静。こういうところはやめなさい。落ち着かないだろ」
「確かに落ち着かないけど、お祝いとかするには、よかったかも。非日常な感じがして」
「先輩。ここ、高くなかったですか。言ってくれたら、私も出したのに」
「大丈夫。エンジェルスとの契約が更改になるの」
先日、エージェントのエディ・ミューア・ジュニアが伝えてきたのは、レザネフォル・エンジェルスより契約条件を見直した上で、再契約の打診が届いた旨であった。昨年、結んだ二年契約が破棄され、新たに三年契約となる。年俸も倍増の好条件だった。
「だから、任せなさい。そうだ。サチは、もうお給料が出てるの?」
「いえ。支度金をいただいてるんで、そこから出します」
「髪とか、服とかも、それか。まさか全部は使ってないだろうな?」
「まだまだ使い切れてません。さすが重工です」
胸を張った祥子に長沢は天を仰いだ。静も天を仰いでいたが、長沢のそれとは事情は異なる。元々、高鷲重工への就職が決まっている祥子だ。可能性は低かったが、支度金の存在を聞いて、祥子の舞姫参加は完全に消えた、とみたのだ。
「あの」
「おい」
静と長沢の声が重なった。
「あ。先生、どうぞ」
「いや。いいよ。静、先で」
このときのことを、静は後に長沢にわびたものだ。譲ればよかった。そうすれば、最悪の事態は阻止できた可能性があった、と。
対して、長沢は、こう返した。多分、無駄だったろう。痛い目に遭わないと改心しなかった。それに、静との話にかまけて、注意の喚起を忘れてしまった自分が一番、悪い。気にしてはいけない、と。
食事会の二日後に祥子が起こした痛恨事への、それぞれの遺憾であった。




