第三一四話 舞姫(二九)
いったん鶴ヶ丘に戻った尋道が、彰と共に新舞浜に舞い戻ったのは、午後五時をやや回ったころだ。彰の運転する車に同乗し、黒須宅のある「高鷲駅ビル」を目指す。
ハンドルを握る彰の顔は、ずっとこわばりっ放しだ。嘆息も多い。内定辞退に向けて緊張しているのである。無理もなかった。相手は世界に冠たる大企業の大立者だ。まかり間違えば、の不安があるのだろう。
「大丈夫ですよ。雪吹君のことも、静さんのことも、すぐに済みます」
「はあ」
「静さんに、気持ち悪い、と言われるぐらい、黒須さんは神宮寺さんのご機嫌取りに忘我してるでしょう。おそらく、そちらの話題がほとんどになると思いますよ」
「確かに……」
車が「高鷲駅ビル」マンションゾーン専用地下駐車場に入った。地下駐車場ロビーの集合玄関機を操作し、おとないを告げると、中村が降りてきた。
「だいたいは説明しておいたよ」
「ありがとうございます」
中村の配慮が効いたか、申し出は滞りなく受諾された。帰りの車内で、彰が思わず鼻を鳴らしたほどに、あっさりと片付けられた。
「よかったじゃないですか。この分なら静さんとの結婚式にも呼ばなくてよさそうですよ」
こう言って尋道はなだめたものだ。
黒須宅に入るや、尋道の予想どおりに二人は早々と来意を完了することとなった。
「ところで、二人には神宮寺君から何か言ってきてないかね」
そして、黒須が、来た。
「何も」
「そうか……」
「仲介者を頼むような方ではない気がしますが。そもそも、仲介をする人の数も多過ぎるようですし」
この場にいる二人以外にも、麻弥を筆頭に一〇人弱が黒須の依頼を受けている。
「ここは待ちの一手に徹しては、いかがでしょう」
「何を言っとるんだ、君は。とんだ不調法をしでかしたんだ。一刻も早くわびを入れる以外になかろうが」
「心得違いかと。黒須さんは、唯一、お持ちだった『わび』のカードを、もう切っておいでです。今は神宮寺さんのアクションを待つ以外にありません」
反撃は予想外だったようだ。全員が瞠目している。
「そう、かもしれんが、それでは俺の気が済まん」
「この期に及んで手前勝手な。気が済まないのは古里をこけにされた神宮寺さんのほうです」
黒須は大きなため息だった。
「なるほど。怒り心頭らしい。君はメッセンジャーだったか」
「娘とも目を掛ける相手を見損なってはいけません。殴るなら自分で殴りに参上します」
「待つのは性に合わんのだがな」
「では、一巻の終わりです。諦めて、この上の深追いは避けられますよう」
「孝子ちゃん、そんなに怒っているの!?」
割って入ったのは黒須夫人の清香だ。
「はい」
「そんな……」
夫と比べて穏当な清香の助勢を得られれば、という期待が皆無だった、とはいえない。まずは首を突っ込んできてくれた。うまく巻き込めば共同戦線の形に持ち込めるだろう。
「お二人は神宮寺さんを、お互いの気性を受け継がれたような、と買っていらっしゃるようですが、そもそも、その認識が間違っているのが不幸でした」
「どう間違っている?」
「規模といいますか。勢力といいますか。三倍は猛烈です。なので、今回、あの方は、お二人の想像の三倍、怒ってます」
黒須夫妻は顔を見合わせている。
「ありそう、ね」
「ええ。青は藍より出でて藍より青し、といいます」
うなずいた清香に尋道はお追従を言った。われながらいやらしい言い回しをする、とは思うが、おくびにも出さない。
「なので、ほとぼりが冷めるのを待つしかありません、と進言する次第です」
「郷本君は、どれくらい待てば、孝子ちゃんは許してくれると思う?」
「何しろ三倍です。怒りが収まる時間も、やはり、三倍でしょうか」
「長いよー」
「ですが、ご安心ください。失言があったのは黒須さんです。奥さまは関係ありません。僕からも強く訴えますので、これ以上、騒ぎを大きくしないためにも、三倍、待っていただけるよう、黒須さんを説得していただけませんか?」
「いいよ。貴一さん、三倍ね」
満面に笑みの清香に、黒須は天を仰いでいる。
「郷本君よ。君は、なかなかのくせ者だな」
「お褒めにあずかり光栄です」
「褒めとらん。褒めとらんぞ」
黒須は大笑した。
こうして、見事、黒須の封じ込めに成功した尋道だったが、一つ、誤算もあった。度胸と口舌を評価されたらしい。何かにつけて黒須夫妻から声が掛かるようになったのだ。加減を間違えた、と悔やんでも後の祭りであった。




