第三一二話 舞姫(二七)
「私、困ってるんです。すぐに、相談に乗ってほしくて」
不穏の気配であった。胸中で、みさとに対する愚痴を量産していた尋道は、にわかに居住まいを正した。
「どうされましたか」
「黒須さんが、薄気味悪いんです」
「薄気味悪い?」
「はい。ちょっと、生理的に無理かな、って。あの人がトップの重工には、行きたくなくなっちゃって」
知らぬこととはいえ、黒須は孝子の出身地である舞浜市幸区を、へんぴ、と侮った。これを、相性の悪い孝子と黒須の距離を空ける好機とみたみさとにより、孝子は、二度と会わぬ、と息巻いている体になったわけだが、皮肉にも狂奔はここから始まったのだった。黒須は孝子と親しい人たちに矢の催促だ。要請したとりなしの成果を確認しに、連日、重工体育館へやってくる。何度も電話をかけてくる。これらの執拗さを指して、薄気味悪い、生理的に無理、と静は言うのだ。
尋道にも覚えがあった。麻弥とみさとも、だ。黒須の動きはカラーズでも問題になっていた。どうしたものか、と思案していたところに静の申し入れだった。思い詰めている。早急に対策を講じる必要があった。
「わかりました。僕に任せてください」
「お願いします! あの人って、うちのお父さんやお母さんより、ずっと年上ですよね? そんな人が、お姉ちゃんに付きまとって……。本当に、気持ち悪い! いやらしい!」
嫌われたものだ。孝子に黒須が目を掛けているのは、夫人との間に子宝に恵まれなかった、という事情があった。ひょんな縁で知り合った、夫妻の気性を併せ持ったような娘に、首ったけとなったわけである。孝子に深い愛情を抱いたのは黒須夫人の清香も同様だった。黒須の執心には、自分もさることながら、孝子を慈しむ清香への配慮があるのは間違いない。その点は大いに酌みたいところであった、が。いかんせん黒須には、娘とも思う相手の気性を把握する、努力だか、適正だかが、足らな過ぎた。いきなり保護者面をされて、無邪気に慕う孝子ではない。気位の高い女なのだ。そこさえ外していなければ、たった一度の騒ぎが、ここまでの騒動にはならなかっただろうに。
「ご安心ください。舞姫の名前をご存じなかったので、もしかしたら、と思うのですが、実は、おばさんも舞姫の運営に参加されるんですよ」
「え? 知らないです……!」
「やはり。ごくごく初期の段階なので、お伝えしてなかったのでしょう。では、静さんは、お二方が舞姫に関わる以上、協力するのが娘として妹としての責務、と舞姫への参加を決めた。これでいきましょう」
「はい!」
「雪吹君は静さんに付き合って?」
尋道は視線を転じた。
「いえ。僕は中村さんの下でバスケを勉強したくて。そしたら、静ちゃんが舞姫に、って言うんで。それなら、一緒に行こう、と」
「ああ。渡りに船だったわけですね。そういうことでしたら、内定辞退の動機は、そのままでいいでしょう。さて。お二人の舞姫入りですが、こちらに支障はありません。ただ、おそらく、そちらには支障がある、と思いますので、少しお話しさせていただいてもよろしいですか?」
「はい。お願いします」
雪吹の返事に合わせて静もうなずいた。
「一つ。舞姫はクラブチームの形式で運営されます。日本リーグの、ほとんどのチームのような確固たるバックは持たないチームです。環境としては貧相なものになると思いますが、それでも?」
「構いません」
「静さん。仮に、僕が黒須さんを抑え込めたとしたら、アストロノーツには?」
「行きません。私、あの人の存在が嫌なんです」
「鶴ヶ丘高校の人たちの再集結は?」
「……諦めます。あ、でも、一応、声を掛けてもいいですか?」
「ええ。ただし、条件は悪い、とはっきり伝えてくださいね」
「わかりました」
次だ。これこそが支障になる、と尋道は予感していた。
「一つ。これは、静さんだけですが、試合に勝ったら歌って踊ってもらいます。構いませんか?」
「え?」
すっとんきょうな声が出た。
「歌舞、と僕たちは呼んでいます。チームの知名度を高めたいんですよ。バスケットを愛するお二人を前にして言いにくくはありますが、日本リーグでいくらいいバスケをしようと、世間一般の知名度は上がりませんね。クラブチームとして、それでは、困るんです」
「もう、決定なんですか?」
静がうめいた。
「決定です。バスケに専念したいのでしたら実業団に行ってください」
「あの。どういうことをするんですか?」
ぽかんとしている静に成り代わり彰が声を上げる。
「勝ったら、みんなで歌って踊るんですよ。ロケッツさんのチアの方たちにも参加いただく予定ですので、そこまで個々の負担にはならないと思っていますが」
「はあ……」
「静さん。究極の選択ですね。薄気味の悪い人のところに戻るか。怖い人のところで踊るか」
不親切な示唆も、やがて通じた。微苦笑とでもいおうか。歌舞とやらが、あの義姉の肝いりならば、覚悟を決めるしかない。静の顔には、そう書いてあった。




