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未知標  作者: 一族
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第三〇二話 舞姫(一七)

 午前七時は、来客の時間としては、かなり早い。「新家」に尋道が訪ねてきた。

「おはようございます。まだ出ておられなくてよかった」

 玄関に迎えると、開口一番が、これだった。誕生パーティーの席で、今夜は「新家」に泊まり、明日の朝一に海の見える丘に戻る、と孝子は表明していた。出発に間に合わせるための朝駆けだったようだ。

「でも、割と、ぎりぎりだったよ。そろそろ麻弥ちゃんが来るから、そうしたら出るつもりだった」

「六時台にドアホンを鳴らしていいものか。迷いましてね」

「急ぎ?」

「いえ。ですが、メッセージを送って、何日も放置されても、それはそれで、困りますし。剣崎さんと連絡が取れましたよ」

 尋道は声を潜めた。察して孝子は顔を寄せる。

「もう?」

「はい。昨日、帰って、あいさつだけでも通しておこうとメッセージを送ったら、すぐに電話がありまして。おかげで夜更かしですよ」

「ご愁傷さまでした。剣崎さんは、何か?」

「近いうちにミーティングを行いたい、と。音楽に関する話です。これは、神宮寺さんに出張っていただく必要があるかと」

「うん」

「可能なら、劇場も見学したいそうで」

「まとめてやっちゃおうか」

「では、セッティングしますね。ご都合は?」

「いつでも」

「わかりました。調整が付いたら連絡しますので、メッセージの確認をお願いしますね」

 言い置いて尋道は去っていった。彼のことだ。迅速にまとめるはず、と身構えていたら、その日の昼下がりに続報が届いた。伊東に劇場の内覧を申し入れて許可を得た。週末は土曜日の午前九時に、新舞浜トーアの南広場で落ち合おう、だそうだ。久しぶりにカラオケにでも行く、としてはいかが、と単独行の口実まで添えられていた。

 当日になった。孝子は待ち合わせ場所の新舞浜トーア南広場に出向いた。広場の中央に整備された芝生の周囲にいる、と言っていたが、すぐに見つかった。尋道と剣崎が並んで立っている。剣崎はギターケースを背負っていた。

「剣崎さん。それは、どうしたんですか?」

「うん。劇場で鳴らしてみようかな、と思って。あそこで音を出す機会なんて、多分、今日ぐらいしかないだろうし」

 そう言って剣崎はギターケースをたたいた。

「ああ。そういう。私も何か持ってくればよかったかな」

「貸すよ」

「はい。剣崎さんは劇場をご覧になったことはあるんですか?」

 剣崎は新舞浜トーアの劇場が、トリニティ株式会社の手によるものと知っていた。しかし、詳しい仕様については把握しておらず、劇場がバスケットボールコートとしても機能するよう設計されている、と聞いて驚愕したそうである。

「面白いね。実に、面白い。早く見てみたいよ」

「郷本君。伊東さんは?」

「今日はロケッツさんのアウェーで、不在です。話は通っているはずですので、行きましょう」

 先日と同じ、西館西口の搬出入口から、尋道の先導で一行は劇場入りした。

「すごい。さすが、われらの音響部隊だ。これは、いい音が響くな」

 舞台の中央に進んだ剣崎は、感嘆の声を上げている。

「どれ。先陣、つかまつろうかな。二人は客席で聴いてくれないかい」

 ギターケースからギターを取り出しながら剣崎が言った。二人は一階席の中ほどに座った。その辺りが、おそらく一番だ、と音楽家の指示だ。剣崎が手を上げた。彼のかき鳴らすギターの音が劇場中を満たす。

 孝子は戦慄していた。音が落ちてくる。そして、落ちた音は、孝子の周囲で漂い、いつしか、霧散している。それは未知の感覚だった。

「これは、すごい」

 隣では尋道がうめいている。何事につけ無感動な彼をして、この感想だ。

 立て続けに二曲を奏でて、剣崎は手を止めた。期せずして孝子と尋道は同時に立ち上がり、拍手喝采、だった。

「いや。素晴らしい。返ってくる音でも、これだけ気持ちいいんだ。おそらく、そちらはもっとすごかったはずだよ。ケイティー。交代してもらっていいかい? 俺も客席で聴いてみたい」

 剣崎の声に孝子は応じた。珍しく素直に、だ。それほどまでに、この劇場の音響に感情を動かされていた。音楽をたしなむ者としては、なんとも仕方のない衝動といってよかったろう。

 孝子が披露したのは、敬慕する米国人歌手、ケイト・アンダーソンの楽曲を二曲だ。剣崎の言ったように、舞台に反射してきた音でさえ素晴らしく響く。孝子も、ここで音を出す機会は今日ぐらいだろう。味わっておいてよかった、と思える感覚だった。

 客席からの拍手も染みた。たった二人しかいない観衆で、こうなのだ。一〇〇、一〇〇〇と増えていけば、すさまじいことになる予感がある。舞姫は、まさにひのき舞台を手に入れたのかもしれない。なんとか、ではなくて、絶対に、この場所は生かすべきだ。バスケットボールと劇場という、本来は縁遠いもの同士を相乗させられれば、関わる全ての人たちにかけがえのないものをもたらすだろう。

 孝子は自ら動いた。剣崎に舞台演出を依頼したのだ。一緒にやろう、と持ち掛けられて、快諾もしている。喫茶「まひかぜ」に場所を移してのミーティングには、長い時間が費やされたのであった。

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