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未知標  作者: 一族
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第二話 フェスティバル・プレリュード(二)

 正式な合格の通知となる合格通知書が孝子の手元に届いたのは、その日の正午すぎだった。配達員から封書を受け取った孝子は、ダイニングテーブルにぽんと置くなり、家に電話するので貸してくれ、と対面に座る麻弥に手を差し出してきた。二人は住まいに固定電話を引かなかったので、電話とは互いの持つスマートフォンを指す。

「自分のを使え」

「部屋にある」

「自分のを使え」

 家の方針で、孝子は高校を卒業するまで携帯電話に類するものを持たなかった。その影響で、とは本人の言い張るところだが、買い与えられたスマートフォンに孝子はいまだなじまない。せっかくの最上位機種も机上のオブジェと化して久しい。

「どんなことだって、慣れるにはそれなりの時間がかかるよ」

「お前はそもそも慣れようとしていない」

「意地悪」

 孝子は舌打ちの擬音を残して自室に入っていった。この手のやりとりは二人の日常茶飯事の一つで、麻弥もいちいち気にしたりはしない。

「出掛けるぞ」

 しばらくして戻ってきた孝子は、先ほどまでのラフな服装を、マキシ丈のワンピースへと変えていた。抱えているのはダッフルコートとショルダーバッグだ。

「……化けたな」

 オフホワイトのアウターにパステルピンクのトップスという、自分では着こなしようのない組み合わせを前に、麻弥はうめいた。

「おばさまの御前だしね」

 ダイニングテーブルの上に置いていた封書をショルダーバッグに入れながら孝子は答えた。

「あ。戻るのか」

「うん。おばさまが、お祝いをしてくださる、って。麻弥ちゃんも一緒に、って」

 孝子がおばさまと呼ぶ相手は養母の神宮寺美幸(みゆき)だ。神宮寺孝子は養女であった。

「久しぶり?」

 受験勉強に集中するため、予備校に近い現在の住まいに移って、今日まで、孝子は養家に戻っていないはずだった。

「だね。しかし」

 孝子は右足でワンピースの裾を蹴上げた。

「こっちも久しぶりだけど、落ち着かない」

 忌避感をありありと表しつつも、あえて選ぶのは、大恩ある養母の好み故、である。髪を洗うのが楽そう、と麻弥のベリーショートをうらやむ発言をするくせに、セミロングをやめないのも、そうだ。

「そう言うなよ」

「今更、虚像を壊すわけにもいかないし。本当にさじ加減をしくじった」

 慨嘆を聞き、麻弥は失笑だ。よくも評した。おそらくは、この地で、唯一、孝子の実像を知る麻弥は首肯した。虚像は孝子の創り上げた芸術品だ。やたらにおっかない人だった、という亡母の厳格なしつけを存分に発揮して、養家と、その周辺で孝子が見せる振る舞いといったら、完璧としか表現のしようがない。

 一方の実像は、養家の目の届かない場所で出現する。とにかく気が短い。かつ荒い。今を去ること一〇年前、二人の出会いは、隣家のきれいなお姉さんによる導きだった。今でも若々しい神宮寺美幸の一〇年前は、まさしくお姉さんと呼ぶにふさわしかったのである。同年代の男子と比べても体格に優れていた麻弥を、頼りがいのある娘、と踏んだのだろう。……ある意味で、慧眼だった、といっていい。こいつの前でなら本性を出しても差し支えなさそうだ、と相手を値踏みするような養女と、私がいなければ、こいつ、何をしでかすか、わかったものじゃない、面倒を見なければ、と使命感に駆られる麻弥を、引き合わせたのだから。

 出会いの時に見た、つややかな黒髪に浮かぶ光輪の衝撃を、麻弥は忘れていない。天使だ、と思った。ところが、実際は、どうだ。天使どころか、どちらかといえば悪魔、いや、魔王のような。やめよう。手のかかる相手ではあるが、麻弥は神宮寺孝子を心底愛している。

「上着、あったほうがいいかな」

「よく晴れてるけど、まだ寒いと思うよ。さっき、郵便を受け取った時、ぶるっとした」

「わかった。取ってくる」

 麻弥はデニムジャケットを羽織ってLDKに戻った。普段着と寝間着以外のレパートリーが、ほぼ存在しないので、こういうときは早い。

「それじゃ、寒い」

 孝子の予言は的中した。外に出るなり、麻弥は、寒っ、と思わず口走り、即座にきびすを返す。

「それが妥当」

 ダウンジャケットを着込んできた麻弥を見て、孝子は、そう評した。

「あいつが動けばな」

 家の前の駐車スペースにとめてあるオレンジのクーペに向けて、麻弥は顎をしゃくった。歩み寄って、さらに、ボンネットをこつんとたたく。麻弥の車だ。

「俺が、今、乗ってるやつでよければ、あげるよ」

 一年前、正村家を訪っていた伯父が、大学の合格祝いを問われて、車、と返してきた麻弥に放ったジョークだ。彼の所有する車は、かなりの経年車にして過走行車だった。加えてマニュアルトランスミッションというハンデもあり、よもやめいが欲しがるとは、考えていなかったらしい。ただ、このジョークは、めいに解されなかった。一カ月後、彼は二〇年ものの愛車を手放す羽目に陥ったのである。

「この操ってる感じがいいんだよ」

「私にも運転させて」

「お前はまず勉強だろ」

 興味を示した孝子も、大学合格の暁には真っ先に運転免許を取るであろう、と宣言するなど、マニュアル車が二人の共通の話題になって久しい、年明けのことだった。順調にオドメーターの数値の上乗せを続けていた車に異変が起きた。どうにも動きが鈍い。行きつけの自動車ディーラーに持ち込んだところ、エンジンが壊れる寸前との回答であった。

「直さないの? 私、まだ、この車、一回も運転してないんだよ」

「うん。まあ」

 麻弥の歯切れが悪かったのは、六桁後半の数字が記された見積書の存在のためだ。助言を仰いだ伯父からは、あのがたぴしにそんな金を出すのは、金をどぶに捨てるに等しい、との見解も届いていた。廃車以外の選択肢は現実的ではなかった。

「私が修理を頼もうかな」

「やめとけ。安物買いの銭失いになる」

「冷たい女」

「仕方ないだろ……」

 口ほどに孝子も固執はしなかった。かの車は、二人よりも年長なのである。

「次は私が買う」

「マニュアルだろ?」

「もちろん」

 次がいつになるのか、それはまだわからない。確かなのは、三月中に手続きを終わらせなければ、次の年度分の納税通知書が届いてしまうことと、それに伴い麻弥の初めての愛車とも、あと一カ月足らずでお別れになることと、だった。

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