第二九四話 舞姫(九)
屋外のエンジン音に孝子は気付いた。「中村塾」から春菜と佳世が帰ってきたのだ。ダイニングテーブルに広げていた基本書を自室に放り込むと、孝子は夕食の仕上げに掛かる。
間もなくLDKに入ってきた人数は五人だった。送迎を担当する麻弥以外の二人は静と景である。
「どうしたの?」
「ちょっと、預かりものがあって。届けに来た」
静の答えに孝子はカボチャに煮汁を掛け回す手を止めた。
「何?」
「名刺なんだけど、先にご飯の用意を済ませちゃって。もう一〇時近いし、急いで連絡もしないでしょ?」
「そうだね。名刺なんて渡してくるような相手だし、夜分遅くは、ね。誰?」
「舞浜ロケッツの伊東、勲でいいのかな。社長さん。木村さんに、お姉ちゃんに渡して、って頼まれた。お二人は大学以来の先輩、後輩だって」
「麻弥ちゃん。変わって」
孝子は麻弥に声を掛け、キッチンを離れると、ソファに座る静の前に立った。
「どうしてロケッツの社長さんが」
「さあ。連絡がほしいみたい」
「じじいか」
「じじい!?」
「どうせ黒須のじじいが裏で手を回したんでしょう。私とロケッツの社長さんなんて、縁もゆかりもないじゃない。ちょうだい」
「うん。あ。裏に、連絡先が書いてある、って」
見ると、名刺の裏には簡単なあいさつと電話番号が記されていた。
「ちょっと電話してくる。三人は、さっさとお風呂入っちゃって。長引いてたら、先に食べていいよ」
孝子は名刺を受け取ると自室に入った。即座に蹴っ飛ばすつもりで電話をかける。
「はい。伊東です」
早かった。一回目のコールで伊東は応答した。
「伊東さまでいらっしゃいますか。私、カラーズ合同会社の神宮寺と申します」
「お。やはり。木村、女子部の木村に、果断な方、と伺っておりましたもので。おそらく、今日のうちに連絡をいただけるのではないか、と思っておりました」
「はあ」
「早速、用件に入らせていただいても?」
「はい」
想定の範囲内、といってよかった。伊東は、カラーズによるみかん銀行シャイニング・サンの継承をサポートする、と申し出てきたのだ。黒須だろう。直接の支援は拒否されると見越して、からめ手から攻めてきたに違いなかった。
「伊東さま。それは、黒須さまのお話があってのことでしょうか?」
ずばりと孝子は指摘したが、伊東は言下に否定した。
「いいえ。違います」
妙な様相だ。孝子の勘違いだったのだろうか。
「では、伊東さまご自身の判断、と?」
「左様。実は、神宮寺社長には、一つ、私どものためにお骨折りいただきたい件がございまして。先ほど、申し上げた内容は――あれ以外にも、たんと考えておりますが――その見返りと考えていただいて、結構です」
「一体、どのような?」
舞浜ロケッツが、現在、ホームアリーナとして使用しているのは、新舞浜THI総合運動公園内に所在するTHIアリーナだ。伊東は、そちらからの移転を計画していた。これに際して、黒須への口添えを願いたい、というのが孝子への要望であった。
「どうも、わからないのですが。たった、それだけで、たんとご支援をいただけるのですか?」
「私にとっては、それだけ、ではないのです。何しろ居丈高な会社ですよ。重工という会社は。子会社が要求を通そうと思ったら、それこそ、あまたの辛酸をなめる羽目になります。下手を打つと私の首も飛びます」
「はあ」
ホームアリーナの移転に向けて、抜かりなく準備を進めてはいるものの、重工との交渉に、絶対、はない。苦悩の日々を送っていた伊東が思い至ったのは、昨今、重工筋に伝わるうわさの利用であった。いわく、重工の大立者が夫妻で入れあげている人物がある、と。夫妻に実の娘のように目を掛けられている、その人物を味方に引き入れられれば、取って置きの切り札となってくれるだろう。折しも彼女は廃部の決まった実業団を継承すべく躍起になっているとか。接近を図るには願ってもない状況だ。
「一度、お目にかかっていただけませんか。私どもの事情の全てと、私の考えております見返りの全てとを、お伝えしたいのです」
黒須か、である。彼に頼み事をするのは、正直なところ、気が進まない。しかし、伊東の熱弁から類推するに、カラーズが得られる見返りは、莫大なものになりそうだ。どうするか。
悩んだ末に孝子は伊東との面談を承諾した。自分一人で結論は下すのは危険と判断した。これ以上は、みさとと尋道も話に加えた上で判断したい。両者との慌ただしいやりとりをへて、ミーティングの日取りが決まった。なんと、明日である。伊東も十二分に果断だった。
LDKに戻ると、佳世の姿がない。風呂の順番なのだろう。麻弥と春菜は既に済ませたようだ。静と景は変わらずソファに座っていた。
「お姉ちゃん。伊東社長はなんだって?」
「うん。カラーズを手伝わせてほしい、って」
「やっぱり、黒須さんが手を回してたの?」
「違ったみたい。伊東さん独自の考え、って。この話、私たちが外に出すまでは内密にしておいて」
「うん」
「麻弥ちゃん。明日、昼前にミーティングね。伊東さんと会ってみる。斎藤さんと郷本君には、もう連絡してあるよ」
「わかった」
「お姉さん。私も行きます」
春菜が首を突っ込んできた。
「あなたは『中村塾』があるでしょう」
「エグゼクティブ・アドバイザーの知見が、きっとお役に立ちます」
「まだいらないし、今後は、もっといらなくなりそう」
過言ではなかった。井幡由佳里の存在が、根拠だ。中村をトップに据えた運営会社の設立案を耳にした彼女は、チーム継承への協力から運営会社への転職へと、志望を変更していた。コーチ契約ではチームを離れる事態もままあるが、社長であれば、めったに起こり得ないことだ。末永く中村に仕えられる機会を逃す手はない。当たるべからざる勢いを前にしては、エグゼクティブ・アドバイザーが、あってなきがごとしの立場となるのは時間の問題といえるのだ。




