第二七話 春風に吹かれて(一〇)
海の見える丘の自室で、孝子は福岡から届いた電子オルガンを演奏していた。先週の到着以来、暇を見つけては向かっている。週が明ければ、じきにゴールデンウイークという四月下旬、土曜日の朝だ。朝食を終えてのひとときである。
上鍵盤、下鍵盤、ペダル鍵盤に、自分の発する四番目の音――声を加えて、ケイトの楽曲を奏でる孝子のそばには麻弥がいた。孝子の机を借りて、画材を広げている。演奏を聴きながら絵を描きたい、と申し出てきたのだ。ただ聴くだけなら許しはしないが、あちらも趣味に没頭するなら、と応じた孝子だった。
「そろそろ、行く?」
三〇分ほど、気分よく演奏して、孝子は電子オルガンの電源を切った。外は快晴で、ドライブがてら買い出しに出掛けよう、と朝食の最中に話していたのだ。
「うん。ぼちぼち動こうか」
麻弥も画材を片付けに掛かる。と、その時だ。ドアホンが鳴った。
「誰だ……?」
不審の声色は麻弥だ。孝子も動きを止める。基本的に来客が少ないので、呼び出し音のたびに緊迫するのが二人の常だった。
部屋を出て、壁の親機をのぞいた麻弥が、おっ、と声を出した。
「那美だ!」
「那美ちゃん?」
見ると、液晶モニターには、確かに神宮寺那美の顔がある。孝子は受話ボタンを押した。
「おはよう」
「あなたの那美が来たよ」
「私の那美ちゃんが来たのね」
孝子が玄関の扉を開けると、白のブラウスに黒のジャンパースカートをまとった那美が立っていた。手には大きめのトートバッグを提げている。その面立ちを、義兄さんと姉さんの奇跡の配合、と評したのは叔母の美咲だが、そこに一切の誇張はない。美男美女の組み合わせである父母それぞれの直線、曲線、高低、配置からいいとこ取りして、さらに念入りな微調整を施されたのが那美だ。ちなみに姉の静は母親成分が九割超、いわゆる瓜実顔で、代々の神宮寺家の女たちはほぼこの型に収まっている。那美だけが例外なのだ。
「疲れた! 前は車だったし、わからなかったけど、ここの坂、長い」
取り出したハンカチで、那美は鼻の頭に浮いた汗を拭った。
「電車で来たの?」
「うん」
「呼んで。乗り換えがあって面倒だったでしょう」
「いい?」
「いいよ。私でも麻弥ちゃんでも」
那美の頭をそっとなでながら、孝子はLDKへと導く。
「麻弥さーん、遊びに来たよ」
「一人か?」
「一人に決まってるよ。お父さんは寝てるし。お母さんは口うるさくて、一緒は嫌だし。静お姉ちゃんは私が誘ったって、来るわけがないし」
「……お前たちって、昔、すごく仲よかったよな」
「静お姉ちゃん? 昔はね。悪いのは、あっち」
「何かあったのか?」
「何もないよ。いつの間にか、冷たくなった」
「静が?」
「そうだよ。あっちが、その気なら、こっちだって、その気になるよ」
「本当に、心当たり、ないのか……?」
「ない、って。思春期とか、そんなんじゃない? だから、そのうち戻るんじゃない?」
「戻ったら、また、仲よくなれそう……?」
「なるでしょう。私には静お姉ちゃんを嫌いになる理由はないんだし」
ひょんな述懐に始まった会話を、孝子は黙って聞いていた。片やの主張だけで判断を下すのは危険とはいえ、貴重な情報だった。那美によれば、姉妹の不仲は静が始点となっている、という。妹の側に、姉を嫌悪する理由はない、そうだ。いずれ静にも事情を聞いてみたいが、急いては事を仕損じる。繊細で微妙な話題だけに、なおさらだ。
「那美ちゃん。私たち、ドライブがてら買い出しに出掛けようと思ってたんだけど」
「行く」
「ちょっと遠出するかもよ」
「泊まるつもりで来たし。問題なし」
「じゃあ、引っ張り回してあげる。そうだ。お昼は外で食べるとして、晩は、食べたいものがあったら、麻弥ちゃんに言ってね。今日の当番は麻弥ちゃんなの」
「あれ。麻弥さんって、お料理、下手くそなんでしょう? まずいのなんか、私、食べたくないよ」
「そうそう。そうだ。私、下手くそだ。孝子、今日はお前が作れ。な」
にやり、と麻弥が続いた。テレビ嫌いの孝子が、養母のテレビ好きを忌避して、鶴ヶ丘を脱出する際に使った言い訳が、ここでたたるとは。因果応報とは、よくも言ったものだ。