第二七三話 ひと模様、こころ模様(一八)
「もっさん。これ、高い車らしいじゃない。おうちも広いし、もっさんお嬢疑惑が私たちの間で持ち切りだったよ」
車を降り立った孝子は、あいさつもそこそこにして、赤いスポーツカーを手で指し示した。
「お嬢じゃないとは思うけど……。ただ、お父さんのお店、すごく評判がいいし。お金は、あるほうなのかな?」
「ロセッティなんて、そうそう買えるもんじゃないでしょうよ。小早川お嬢」
「もっさん。この車の写真、撮ってもいい? 麻弥ちゃんに見せたい」
「いいよ。……正村さん、こういう車に興味あるの?」
「こういうの、というか、車全般に興味がある感じかな」
スマートフォンに赤い車体を収めながら孝子は応じた。
「私は嫌いだな。乗りにくいし、荷物は入らないし、左ハンドルで運転しにくいし。あと、燃費も悪くて。最悪だよ」
「人の趣味をとやかく言わない」
基佳は首をすくめた。
「趣味じゃないんだよ。お父さん、これ、衝動買いしたの。昔は普通の車があったの。それが、私たちがいなくなって、これに替えて。その理由が理由で。もう……」
「どんな理由?」
基佳が語ったのは、高一の冬、両親の離婚から半年後に舞浜を訪れたときの話だった。空港で再会した父の姿を見て、基佳はがくぜんとしたのだ。別人のようなやつれっぷりは、病を得たのだ、と真っ先に疑ったのも無理からぬほどの、であった。
「いや。別に、どこも悪くないよ。少し痩せただけさ。この年になっての独り身を満喫していたら、こうなったんだ」
空港の駐車場にとめられていた迎えの車にも、基佳は驚かされた。濃紺の、ドアの四枚ある、見慣れた車ではない。赤く、ドアは二枚しかない好事の車だ。
「店の常連さんに中古車を扱ってる人がいてね。ちょくちょく話を持ってきてくれる人だったんだけど、車なんて走ればいいんだし、真面目に聞いてなかったんだよ。でも、ちょうど独りになったタイミングで、また、話をくれてね。まあ、一人なら、こんな車でもいいか、って思って。つい」
父の説明に基佳は立ち尽くすしかなかった。好きだったものを、家庭を持っていた期間は我慢していた。そして、身軽となったことで念願をかなえた、とかいう理由なら、いいだろうが。興味のなかったものを、つい、ではない。
さすがの孝子も黙り込んだ。みさとと尋道も同様で、何を言うべきか、全く見いだせない状態である。そのまま、かなりの時間をたたせてしまったらしい。玄関の扉が開いて、痩身の男性が顔を見せた。基佳の濃い眉は、この人譲りなのだと一目でわかる。基佳の父だ。
「どうしたの。寒いのに」
あいさつを交わした後、ずいと孝子は前に進み出た。
「実は、この車にまつわる、もの悲しい話を聞いて、みんなで涙してました」
「え……? ははは。まあ、ねえ」
基佳の父は渋い笑いを浮かべる。
「基佳。駄目だよ。そんな。父親の恥をさらしちゃ」
「いいえ。伺っておいてよかったと思います。ところで、もっさん。舞浜ケーブルテレビの話は、おじさまには、まだ?」
「いや。一応、してるけど」
「だったら、そのうち、この車もお役御免になるかもね。いろいろ大変、って言ってたし。おじさま。もっさんが舞浜ケーブルテレビに入社した暁には、こちらから通うことになると思うんです。そのとき、普段使いのしづらい車だと、もっさんが困ってしまいます」
「もしも、基佳がここに戻ってきてくれるんだったら、車なんて、すぐに変えるよ。基佳が運転しやすい車を選んだらいい」
一瞬、基佳の父の顔に愉悦が浮かび、すぐに消えた。
「本当に、そうなってくれればいいんだけどね」
「なりますよ」
重いため息をはじいて、力強く請け合ったのはみさとだ。目が少し潤んでいる。独居する父親の悲哀を聞いて、すっかりできあがっていた。
「小早川さんが、桜田スポーツ新聞に寄稿した記事、読みました。冷静な筆致で、よく書けてると思いました。ねえ、郷さん」
「ええ。取材もえり好みせず、幅広くこなされているようですし。相当な実践家とお見受けしました。いずれはカラーズにも寄稿してほしいですね」
「いずれ、じゃなくて、早速、動いてもらおうよ! ちょうど、『中村塾』っていう、格好のネタがあるんだし!」
「桜スポとカラーズとの連携を合わせて、黒須さんの推薦をいただけるための材料にしていきますか」
孝子は内心にほくそ笑んだ。「両輪」の回転数が上がっている。こうなれば、もはや、止まるものではない。基佳の進路と、ひしゃげた赤い車の命運は、ほぼ定まった、といってよかっただろう。




