第二六話 春風に吹かれて(九)
「あのばか……!」
クラス中が息をのむような、長沢の声だった。夏季休暇明けの教室、全体朝礼前のショートホームルームの時だ。クラスの最後尾の席では、机にうつぶせてすすり泣く女子生徒がいる。孝子だ。島津基佳が親御さんの都合で転校した、と長沢の発表を受けてのことだった。
この時、クラスの全員が、薄情、の二文字を脳裏に浮かべていただろう。紛れもない問題児だった基佳を、クラスの輪の中に引き込んだのは孝子である。初会での非礼に対する憤激を、寛大にも許したその器量。積極的に周囲との交流を促し、調和に導いたその機転。誰しもが異論なく認める孝子の厚意をむげにして、なんと信じ難い、許し難い忘恩の徒か。
「みんな、朝礼に行って」
厳しい表情を崩さないままで、長沢が生徒たちに指示を出している。しかし、立ち上がったものの、皆が戸惑いを隠さず、その場に立ち尽くしていると、さっさと行け、と怒鳴り声を上げる。明朗快活な性質で親しまれている担任の荒れた様子に、生徒たちは一人を除いて教室から足早に出ていった。
孝子に寄り添うのは、もちろん、麻弥だった。
「正村も。ここは私に任せて。行って」
麻弥は長沢と視線を合わさず、孝子の背をさすっている。
「プライベートな話なの」
「あいつのプライベートなんか、関係ない」
深刻な無言の間も、長くは続かなかった。孝子が立ったのだ。
「麻弥ちゃん。行こう」
「うん」
泣きぬれた頬を拭う麻弥のハンカチの感触を感じながら、孝子は長沢に黙礼した。わずかでも事情を知る孝子には、だいたいの想像がつく。両親の離婚が成立し、基佳は親権者となったどちらかの親と行動を共にしたのだろう。転校を伴った以上は、行き先となる親権者の新住所地は遠方に違いない。孝子の涙は、大いなる不幸に見舞われた少女に対する同情からしたたったものであった。
……そこまでだ。長沢が言ったように、プライベートな話なのだ。これ以上の詮索は無益である。放課後、長沢の呼び出しにも、もう関係ない、と孝子は応じなかった。それはそれ、これはこれ、と考えがちな孝子である。同情の念とは別に、一報を怠った基佳に対して、つれない、水くさい、と憤る感情がなかった、と述べたら、この時点ではうそだった。
同じ日の午後、基佳からの手紙が届いた。差出人は「小早川基佳」とある。住所地は広島県。復氏した親権者の姓と親権者の里だろう。果たして、小早川は母方の姓、広島は母方の里だった。
切々とした謝罪と感謝の文面を読み終えて、孝子の心境にも余裕が生まれていた。返書に書いたのは土産についてだった。冬休みにこちらに来るとの由なので、土産を楽しみにしている。まさか、手ぶらで顔を出したりはしないだろう。私は甘いものなら大丈夫だ。ただし、アルコール分は厳禁とする……。こんなときには、いたわりも、慰めも、必要ない。その立場にない者が何を言おうと、それは空虚だ。放っておいてくれていい。生死の差異はあれど、肉親との離別を経験した孝子の、これが考えだった。
やがて冬になって、両手いっぱいに土産を抱えた基佳がやってきた。玄関先で、土産を奪おうとする孝子と基佳の攻防が勃発し、やがて笑いが続く。この日をもって、神宮寺孝子と小早川基佳の友情が真に開幕した、というのが両者の共通した認識である。島津基佳の時代を序幕とすれば、それは第二幕となる。
「お待たせー」
二年ぶりの再会だ。高校三年生時は互いの受験のために、昨年は孝子の受験のため、手控えていた。
「待ったよ。佐伯君は?」
「まだ来てないね」
「遅刻は、連帯責任ね」
基佳と佐伯の仲をつないだのは、一応、孝子である。濃い眉の印象的な基佳は、不機嫌なときには、それがあだとなって随分ときついふうに見られがちだが、その分、笑顔になると柔らかさが際立つ。孝子と和解後の、柔らかさ際立つ基佳に引かれたのが佐伯だった。いざ、と考えていた矢先に基佳が転校してしまい、佐伯は大いに落胆したそうな。その時点で、彼は全く基佳への取っ掛かりをつかんでいなかった。しかも、孝子は基佳と断絶の気配である。
不通となった恋路に復旧の兆しが見えたのは、三年前、高校一年の冬季休暇明けだった。孝子がスクールバッグに付けていた、少し変わったアクセサリーが佐伯の目に留まったのがきっかけだ。それは、しゃもじをかたどったお守りだった。
「島津さんにもらったの」
孝子と基佳の交友が途絶えていなかった、と知った佐伯は、勇躍して孝子に紹介を依頼してきた。佐伯は明るくにぎやかで、くっきりとした顔立ちをした、なかなかの好男子である。背丈はやや低く、孝子よりは明らかに、基佳とは同程度だが、それを気にするかどうかはそれぞれの問題だ。佐伯の言動で不快になった記憶もない。なんとかなる、と孝子は右から左へと取り次ぎ、後は当人同士に任せた。二人にどのようなやり取りがあったのか、孝子は興味がなかったので聞きもしなかったが、佐伯は無事に本懐を遂げたらしく、そのまま今日に至っている。
「ええ……。あ、来た。セーフだね」
基佳の指した方向を見て、孝子は失笑していた。グレーのパーカーにデニムパンツ、そしてスニーカー……。またもや服が同じになってしまった。
「神宮寺さん、久しぶりー」
二人のそばに寄った佐伯は、にっこり、笑った。卒業式以来は、約一年ぶりだった。
「小早川さん。管理不行き届きだよ。なんで、私たち、ペアルックになってるの」
「え……」
「本当だ。完全に同じもの? 僕、これ、『それいゆ』で買ったんだけど」
「私も『それいゆ』。安くて、品もいいし、最高じゃない」
「それいゆ」は著名なファストファッションストアである。
「しかし、とても、同じ店で買ったとは思えないよね」
孝子の隣に佐伯が並んで立つ。主に素材に立脚する見栄えの差以外で、特に顕著なのが孝子の細く長い脚と、上半身からするとアンバランスに太く短い佐伯の脚だった。
「こう見ると、たっちゃんは脚が短いね」
「成長期に脚に筋肉を付け過ぎると、こうなるんだよ」
佐伯は中学、高校とサッカー部だった。進学した舞浜市立大学でもサッカー部に所属している。
「ところで、神宮寺さん。一つ、聞いていい?」
「何?」
「指輪。まさか、結婚するの?」
孝子は左手薬指に、例の指輪を着けている。
「しないよ。これは郷本君のお姉さんに合格のお祝いでもらったの」
「ああ、一葉さんに! 僕も持ってるよ。作ってもらった」
そう言って佐伯は左手を見せた。左手中指にシンプルなデザインの指輪を着けている。
「佐伯君とは『ICHIYO』ブランドの仲間同士だったか」
「イェーイ」
佐伯が両手を上げると、孝子も続き、両の手のひらを打ち鳴らす。
「……私だけ置いてきぼり」
和気あいあいの二人の脇で、基佳は頬を膨らませている。
「ペアルックだし、アクセサリーも同じブランドだし。私たちがカップルに見えても不思議じゃないかもね」
「じゃあ、私は何……?」
「混ぜてもらった独り者」
「ひどい」
この組み合わせは、昔から攻守が一定なのが特徴だった。二年ぶりの再会となったこの日も、それは変わっていなかったようだ。




