第二六七話 ひと模様、こころ模様(一二)
奥村いわくの「田舎」は舞浜市碧区田鶴だ。しかし、もしもこの「奥村談話」を碧区外れの碧北に在住する斎藤みさと氏が耳にすれば、田鶴のどこが田舎か、とさぞ憤慨したであろう。田鶴は碧区の最南部にあって、区役所などの公共機関が勢ぞろいする、いわば「区都」のような地域と認識されている。奥村の住まうグランタワー田鶴は、その区都の一等地に建つタワーマンションだ。二八階建てで、隣接する田鶴駅へは地下通路で直結している。また、グランタワー田鶴の低層部には大型商業施設がテナントとして入居していて、こちらにも直結の通路がある。先に述べた公共機関も、全てグランタワー田鶴とは指呼の間だ。後でグランタワー田鶴について調べた基佳は、その素晴らしい利便性に大いに驚いていた。
一方、舞浜市全体で見れば、碧区は北区や中区などの繁華な区と比べたとき、二段、三段と確かに劣っていた。それは区都であっても変わりはない。その程度の場所のタワーマンションで、最下層の賃貸物件に住んでいる事実が、プロとしての矜持を傷付けるというのか。……どうも、それだけではない陰影が「奥村談話」にはあったような。このときの基佳は、そんなことを考えていたのだった。
グランタワー田鶴四階の四〇三号室では、さすがこの美男の母親というべき容貌の持ち主が基佳たちを迎えた。ただ、小柄できゃしゃな体は息子と正反対だ。そして、
「紳、ごめんなさい。お母さん、ちょっと失敗しちゃった。作り直してるの。少し待ってね」
可聴域の下限のような声である。
「手伝うよ」
「いいの。お友達をおもてなしして」
この声も小さい。
「あ……」
ほんの少し、ボリュームが上がった。
「佐伯君。紳が失礼なことをしたって聞きました。とても怒らせてしまったって。本当にごめんなさい」
折り曲げた体が直角になるような深々とした一礼だ。
「ああ。大丈夫です。身の程を知らずに声を掛けた僕が」
基佳は濃い眉をつり上げて、思いっ切り佐伯の尻をひっぱたいた。
「いったあ。何、もっちゃん」
「おばさん。大丈夫です。高校時代にほとんど交流もなかったのに、忘れられてた、って勝手に腹を立てただけです。奥村君は悪くありません」
そう言い放つと佐伯を抱え込んで、もろとも一礼だ。
「あら……」
「じゃあ、奥村君。私たちはおばさんの邪魔にならないよう、おとなしくしてよう。どこにいたらいいかな」
頭を上げた基佳は、ぼうぜんとする母子に、この後、を提示した。明るさを基調とした能動は、基佳の大きな特徴だ。この提示によって基佳と佐伯は奥村にいざなわれて彼の自室へ、奥村の母はキッチンへ、それぞれ移動することになった。
LDKに接した奥村の部屋は狭く、窓もない。壁掛けの類いもなく、ひたすら真っ白な壁が目にまぶしく、威圧的にすら感じられた。
「……そうだ。何も置いてなかった。よかったら、座って」
部屋の中の唯一の家具である巨大なベッドを前に、奥村は立ち尽くしていたようだ。
「それは、さすがに」
佐伯の返答によって三人は立ち話となった。
「……さっきの話だけど。あれは完全に僕が悪かった。佐伯君。ごめんなさい」
深々と奥村は頭を下げた。
「いや。実際、もっちゃんの言うとおりだし。気にしなくていいよ」
「……そうじゃなくて。僕は昔から人の名前を覚えるのが苦手で。すぐに忘れる」
「ああ……! それで、伊央さんを、あの『10』、あの『10』、って呼んでたの!?」
「うん。……実は、さっき聞いたもっさんの名前も、もう」
基佳は噴き出した。丁寧に言ったつもりなの、は、理解できた。
「もっさんはない。小早川基佳です。あの『10』は伊央健翔。全く。神宮寺さんの名前は覚えていたくせに」
「……神宮寺さんは、忘れない。……元気にしてるのかな?」
自傷の危険性はあっても、笑いで済ませようと出した名前だったが、見事に跳ね返ってきた。うつむいた奥村の深々とした嘆息に釣られて、基佳の表情の明度も下がる。
「……ああ。えっと、最近はご無沙汰で」
大事な話なら返す、と日々の交流に条件を付けるような神宮寺孝子は、当然、自分も大事な話以外での連絡をしてこない。孝子発の連絡は、今までに何度あったか、と思い起こして指折り数える必要はなかった。佐伯を紹介してきたとき、ただ一度きりである。……自分があの人を思うように、あの人は自分を思ってはいない、というのは基佳がひっそりと抱え続けている孝子への遺憾の念だ。
「ご無沙汰」の決定打となったのは、神宮寺静のLBA挑戦だった。基佳がこの事実を知ったのは静のデビュー戦の後だ。挑戦の表明ぐらいでマイナースポーツの話題は流布されない。成果が出て初めて、である。事前の連絡はなかった。静を支えるカラーズ合同会社なる組織の長は孝子らしい。その点についても何もない。つまりは、自分は知らせるほどの相手ではない、というわけか。ふてくされた基佳は、そこから孝子と「ご無沙汰」になったのだ。
「しかし、すごい部屋だね。ここって、もしかして納戸じゃない?」
二人して黙りこくってしまったので佐伯しかいない。奥村の事情については関知しないが――おおかた振られたのだろう――基佳の事情については、散々に愚痴られているので承知している彼だ。故に、現状の話題とは無関係のところへと飛ばしてしまう。
「うん。部屋が二つになると値段が跳ね上がって。僕の稼ぎじゃ、まだ手が出せなかった」
「ここで、どれくらい?」
「一五万ぐらい。2LDKとかになると、ずっと上の階になって値段も二倍、三倍で。でも、仕方なかった。一刻も早く引っ越したかったんだ」
「何か不都合が?」
「お母さん、内気な人なんだ。前の家は一軒家で、僕のせいで人が大勢来て、とても困らせた。だから、セキュリティーのしっかりした家に引っ越したかった」
ジャーナリストやファンのうち、品位に欠けるやからか。奥村紳一郎は、その傑出した能力と、同様に傑出した容姿とが相まって、日本サッカー界の一番星といっていい存在だ。大挙して押し寄せたであろうそやつらを、あの声の小さな人が応対していたのかと考えると、基佳も佐伯も、しんみりとうなずくしかない。
「……ここは、どうなの? おばさんは、なんて?」
「お母さん、満足してる、って言ってくれたよ。天国みたいだ、って。でも、ここじゃお母さんへの恩は返せない。もっと都会の、もっと設備のいい家に住んでもらわないと」
「奥村君って母子家庭なんだっけ」
「ちょっと。たっちゃん。あんまり立ち入った話は……」
基佳は首を左右に振りながら佐伯の肩をつついた。
「大丈夫。聞いてほしい話なんだ。……僕はお母さんに苦労を掛けっ放しで。小さいころ、サッカーが面白い、なんて僕が言ったばっかりに、お母さん、無理してF.C.のユースに入れてくれて……」
奥村は目を閉じ、深くうつむいた。
「本当に貧乏だったのに」
「聞いてほしい、ってことは、さ。僕をU-22に誘ったのと、今の話は関係してるの?」
「うん。本当はお母さんのそばを離れるつもりはなかったんだ。でも、F.C.に引退までいても大したお金にはならない。去年の契約更改で、F.C.が出してきた額には本当にがっかりした。僕はすぐに大金が欲しい。移籍するしかないんだ」
「そうだね。給料は海外のほうが圧倒的にいいよね。どこのリーグを狙ってるの?」
「どこでもいいけど。最低でも年俸は二〇億ほしい」
「おおー。言うね」
「去年の世界選手権で、ある程度、僕の名前は世界でも知られたはずだ。来年のユニバースでメダルを取れば、二〇億も見えてくると思う。そのためには、あの『10』が邪魔なんだ。あの『10』、この前のヨーロッパ遠征で信じられないぐらい、外しに外したよ」
奥村は伊央健翔の名をもう忘れたらしい。
「全く理解できないんだけど、それでも監督はあの『10』を使うんだ」
「まあ、体だけならワールドクラスじゃん、伊央は。夢を見てるんだと思うよ。完成したら、確かにすごい」
「もしそうなら、監督のつまらない夢に僕の目標を邪魔をされたくない。佐伯君。お願いします。僕に力を貸してください」
なんとも爽やかな自分本位であった。不思議な感動で基佳はほほ笑んだものだが、そこに、突如、佐伯の高らかな笑いがきた。
「サッカー選手としての夢で、海外のリーグに挑戦したいです、とかだったら、自分でやれ、って言ってやるんだけどね。お母さんのため、っていうのがいいじゃない。いいよ。やるよ。僕も奥村君のお母さんのためにね」
「佐伯君……!」
「ま。正直、奥村君は僕を過大評価していると思うけどね。僕にできる範囲で、やってみるさ」
そのころ、奥村の母は買い出しのための外出を気付かれぬよう、そっと扉を開け閉めすることに腐心していた。彼女は料理を失敗していなかった。無礼を働いた佐伯達也を呼んで、わびつつもてなしたい、という息子の要望を受けて、万全の準備で待っていたのだ。ところが、である。予定に入っていなかった女性の登場だった。奥村の母が用意していた料理は、コース風のもので、分割が難しかった。ならば、その旨を断ればいいのに、それはせず、というかできず、なんとか取り繕おうとしての脱出だったのである。
奥村紳一郎が、この人のために、と気張る対象は、およそ、そういう性質の女性であった。




