第二六五話 ひと模様、こころ模様(一〇)
舞浜市立大学は、その名のとおり舞浜市によって設立された大学だ。メインキャンパスの錆木キャンパスは舞浜市南区錆木に所在している。舞浜大学千鶴キャンパスの千鶴からでは、北西の方角に徒歩なら二〇分強の距離だ。電車を使うなら海浜線を舞浜大学千鶴キャンパス前駅より二つ上った錆木駅が最寄りである。このときの所要時間は約六分で、市立大生の郷本尋道がまめにSO101に顔を出しているのも、この近さ故だった。
一二月中旬の土曜、朝、錆木キャンパスに小早川基佳が姿を見せた。市立大サッカー部のリーグ戦を観戦するため、進学先の東京からやってきたのである。基佳の恋人である佐伯達也は、同部の絶対的エースなのだ。
東側にある正門を入って、キャンパスの南端にあるサッカー場へと向かう。市立大は小規模な大学だけにキャンパスも狭い。あっという間に到着する。周囲を防球フェンスで囲われたサッカー場の中では、市立大、この日の対戦相手である舞浜経済大学、それぞれの部員たちがウオーミングアップの最中であった。
基佳は市立大の部員たちがウオーミングアップをしている側のフェンスにへばり付いた。サッカー場は関係者以外の立ち入りが禁止されている。佐伯を目で追っていたら、気付いたらしい。投げキッスである。基佳が拳を振り上げると、佐伯、今度はスキップなどやってみせる。
試合は午前九時のキックオフだ。少し早い開始だが、それは終了も早い、ということにつながっていく。試合後のなんだかんだが終わっても、せいぜい正午を回るか、回らないか、だ。なので午後は、二人で食事をして、封切りされたばかりの洋画を見て、ショッピングをして、つまりはデートをする。佐伯の浮かれっぷりは、そこに起因するものに違いない。
ぼつぼつ基佳以外の観客の姿も見えだした。地味な弱小チームの市立大サッカー部だが、エース佐伯の名だけは、ちょっぴり売れている。昨年の秋、市立大サッカー部が奇跡中の奇跡を起こして出場したサッカー全日本選手権大会で、舞浜F.C.相手に活躍を見せて以降だ。顔なじみの何人かと話し込んでいるうちに、いつしか時刻は午前九時となった。舞浜市立大学サッカー部と舞浜経済大学サッカー部の試合が始ま……、らない。
キックオフの笛は吹かれたが、センターサークルの中央に立った佐伯がボールを蹴らないのだ。あさっての方向に顔を向けて、微動だにしない。
主審に促されて、ようやく佐伯はボールを蹴った。心ここにあらずの風情でやったそれで、ボールは直接、敵方に行ってしまう。しかし、追おうともせず、佐伯は依然としてセンターサークルの中央に立って、一点を見つめている。
何事か。基佳は佐伯の視線の向きをたどって、思わず、あっ、と叫んだ。長身に、遠目でも判別できる彫りの深い横顔の奥村紳一郎がいた。基佳の右手二〇メートルぐらいの位置で、基佳と同じくフェンスにへばり付いていた。市立大と舞浜F.C.の試合で発生した佐伯と奥村の因縁については、基佳も承知している。佐伯の不審な挙動の理由はまさしく彼だ。それにしても、なぜ、こんな場所に、である。奥村は、確か、U-22サッカー日本代表チームの一員としてヨーロッパに遠征していたはずだ。
佐伯はまだ奥村を見続けている。チームメートたちに激した調子で何やら言われても、その姿勢は不変だ。基佳は奥村の下へと向かった。彼の周りには、その存在に気付いた観客たちが集って、がやがやとやっているが、全く意に介する様子はない。偉才、奥村紳一郎は老若男女に分け隔てなくつれない、というのは有名な話だった。「幼児であろうと冷然と無視するプロ意識皆無の男」、「選手としては最高。人間としては最低」――などと批判にさらされることもしょっちゅうの奥村だ。佐伯との因縁も、そのあたりが原因なのだろう、と思う。
「奥村君」
声を掛けても無視される可能性が高い。それでも、一応、である。ところが、反応があった。彫像のごとく立っていた美丈夫の顔が基佳のほうに向いた。のっそりと歩いてくる。
「確か、神宮寺さんの友達の……」
意外の名前が出てきた。今の基佳にとって、神宮寺孝子の名は若干の痛みを伴う響きなのだが、ここはそれどころではない。
「うん。高一のときにクラスメートだった小早川です」
「小早川さんも、佐伯君を見に?」
「うん。仲よしなの。もしかしたら、奥村君も?」
「そうです」
サッカー場に目を移すと、佐伯は不動だ。じっとこちらを見ている。基佳は両腕で丸を作った。さらに、その場でぴょんぴょんと跳びはねてみせる。大丈夫だ、のつもりだった。
ややあって、佐伯が動きだした。意図は伝わったようだ。
「奥村君。後でセッティングする」
「お願いします」
「そういえば、奥村君。U-22の遠征じゃなかったっけ?」
「今朝、帰ってきました」
ヨーロッパの、どの国から戻ってきたのかは知らないが、いずれにせよ一〇時間はかかるフライトのはずだ。しかも一週間の合宿の後である。強行軍といっていい。そこまでして佐伯を見に? どうも、わからない。
「お……」
奥村のうめきは、佐伯のプレーに向けられたものだった。フィードされてきたボールを左足のワンタッチで、ふわりとキーパーの頭上を越してゴールに収めてみせた。しかも、プレーに復帰して最初のタッチで、これである。
盛大な拍手を奥村は送っている。
「うまい。佐伯君のワンタッチには、去年、危うく痛い目に遭わされかけた」
「それで偵察に? でも、今年は市立大、全日本選手権は県予選で負けちゃったよ?」
「いえ。戦いたいんじゃなくて、一緒に戦ってほしくて、来たんです」
周りがざわついた。二人の会話は聞き耳を立てられているのだ。佐伯をF.C.に? などと問いが飛ぶが、奥村は反応しない。
「あの『10』は、なんて名前でしたっけ?」
「え? 『10』って……?」
背番号のこととは想像できる。問題は、どこの背番号「10」について言っているのか、だ。奥村が直近で触れてきた背番号「10」ならU-22の伊央健翔になるが。
伊央の名がどこからか挙がった。しかし、奥村、これにも反応せず、ちらりと基佳を見た。
「……そういう名前でしたっけ?」
「だから、どこの『10』?」
「U-22の、です」
「じゃあ、伊央さんでしょう。あれ。伊央さん、来年はF.C.じゃなかったっけ?」
「え? あの人、F.C.に来るんですか?」
「なんで私に聞くの?」
桜田大学サッカー部の伊央は、大学サッカー界屈指の点取り屋にして、来夏に開催される「ユニバーサルゲームズ」の出場権をうかがうU-22サッカー日本代表チームのエースとして知られる男だ。来シーズンからの舞浜F.C.への加入が内定したと、というニュースを基佳は学内で耳にしていた。基佳も桜田大学の学生なのである。
「まあ、いいか。一緒にやるのなんて、そう長くはないし」
周りが騒がしくなってきた。一緒にやるのが短いとは、いよいよ移籍するのか。昨年の世界選手権大会で奥村は、日本にシンイチロウ・オクムラあり、と鮮烈な印象を残している。当時の移籍はなかったものの、その目は常に世界を見据えている、と目される彼なのだ。
「あの『10』は下手だ。佐伯君に……」
「奥村君! 後にして! 後に!」
「はい」
ぼそぼそと、とんでもない発言だ。奥村との会話は初めての基佳だったが、人間的にどうこう、というちまたの評判は、あながち不当でもないような、と感じ始めていた。一緒にプレーする機会は長くないので、まあいい、とは下手なので、つるみたくないが、と言っているのか。確かに伊央健翔は技術に秀でた選手ではない。といって、それをわざわざ公衆の面前で言うのか。あの「10」、あの「10」、と再三にわたって伊央の名前など眼中にないアピールも性悪に思える。基佳以外の声を黙殺するなど、常人ではやりづらいことをやって、なお泰然としているのも、その人となり故だろう。
とにもかくにも、一風変わった人物といえた。そんな男が、自分の恋人に何を求めるというのだろう。面倒、大変が起きなければいいのだが。漠とした不安に基佳は身震いするのだった。




