第二六四話 ひと模様、こころ模様(九)
「生徒」に才能があったのか。「先生」の指導がよかったのか。どちらかといえば、もちろん後者だろう。孝子と斯波は長足の進歩を見せて、お粗末ながらもネットを挟んで打ち合えるようになっていた。
「エディさん。なかなかじゃなくて、かなりうまかったでしょう。素人二人を、よくも、こんな短時間で」
やれ一息、と動きを止めたところで斯波がたたえた。同感の孝子も大いにうなずく。
「プロも考えなくはなかったんですよ。ただ、僕程度では大した選手にはなれない、と思って。やめました」
「アートは、どうだったんですか?」
隣のコートでは、アーティがみさとをきりきり舞いさせている。そもそも身体能力の桁が違うので、当然といえば当然なのだが、その点を加味しても、アーティの所作には一定以上の洗練を感じる、ような気がする。
「アートはうまかった。僕が教えたのは、ほんの子供のころだけですよ。どうも、すごい選手になりそうだ、と思って、アカデミーに通わせたんです。お二人はダナ・ドアティって、ご存じですか?」
二人は同時に首を振った。方向は横である。
「テニスのプロプレーヤーです。かなり強い子なんですけど、中学生のころは、アートのほうが圧倒していました。あのころは、このままプロになるのかな、と思ってたんですけどね」
「何かあったんですか?」
「シェリルですよ。シェリルに傾倒して、バスケットボールを選んだんです」
「ああ。妹に聞きました。大学に行かず、LBAに入ったのも、シェリルと同じチームでプレーしたかったから、って」
「ええ。シェリルは素晴らしい女性だ。アートにとって最高の選択だったと思います。僕たちにしても、シェリルの薫陶を受けないまま、アートが大人になっていたらと思うと、彼女には感謝しかない」
チョウよ花よ、とはエディもよく知識として持っていたものである。幼少のみぎりのアーティは、わがままいっぱい、怖いもの知らずだ。試合中にかんしゃくを起こして、相手目掛けてボールを打ち付けたことなど数知れず、というではないか。
「そこは、変わってないんじゃないですか? ドラフトのときに、アリソンさんの椅子を蹴っていたし」
「昔のアートなら、アリーを蹴ってたよ」
「それは、進歩だね」
「何しろ、僕たちがいけなかった。今では、あんなごつくなったけど、昔は、華奢で、泣き虫だったんです。で、家族総出で甘やかしていたら、とんでもない子に」
「それを、シェリル・クラウスが?」
「そうなんですよ。まあ、がつん、と」
こうして孝子の初めてのテニスは、年長の男性二人とのおしゃべりのうちに終わったのであった。
一行が鶴ヶ丘へ帰還したのは昼前だ。スポーツで疲れた体に、何か用意しておく。みさとも連れてこい、と美幸があらかじめ言付けていたので、みさとも同行してきている。
「テニス、どうだったー?」
到着の気配に、那美と美幸が庭に出てきた。斯波が手配した白い大型のミニバンに寄ってくる。
「ミサトをぼこぼこにした」
「えー。ミサト、初心者のケイティーに負けたのー?」
「負けるか。こやつ、ずっとおしゃべりしてた。ミス・リョーコと私なんて、カラーズテニス部の結成を誓うぐらい、一生懸命にやってたのに」
「アートに遊ばれてたしね。ミス・リョーコは善戦してたのに。もっと精進したまえよ」
「うるせえ」
なおもがやがやと騒いでいると「本家」から美咲の登場だ。
「おー。お帰り。どうだった?」
つと集団を離れて、孝子は美咲のそばに寄った。美咲も英語は不得手なのだ。同じく不得手の美幸、日本語で話したいエディも孝子に付いてくる。
「エディさんのコーチがとてもお上手で、なんとか形にはなりました」
「タカコサン、とても筋がいいです。もっと練習すれば、もっともっとうまくなりますよ」
「そう。私も全然、動いてないし。ちょっとやってみようかしら。孝子、付き合ってくれる?」
「はい。もちろんです」
「ミサキサン。僕でよかったらコーチしますよ」
「ええ。お願いしようかな。でも、テニスやるために碧北までは行きたくないね。……姉さん。あそこを更地にしてテニスコートにしちゃわない?」
「えっ!?」
美幸の叫びに何事かとみさとたちもやってくる。美咲が指したのは敷地の南東部にある庭園だった。四季折々の花が見事に咲き誇るよう、緻密な計算の上で造園された、実に凝った庭園なのだ。今の季節であれば雪に見立てた白い花が、木に、草に、だ。これをつぶすという。話を聞いて、神宮寺家きっての野放図の那美さえ息をのんだ。それほど衝撃的な美咲の発言であった。
「維持するのに定期的に人を入れないといけないし。それがまた、結構、かかるし。うちは何かにつけて大仰なのよ。いろいろと、いつか一掃してやろうと思ってたんだ」
あぜんとしている周囲を尻目に美咲は続ける。
「これを機に、前から考えていた大改造をやってみようかしらね。うちもつぶして新築するの」
築一〇〇年を超えて、なお健在の「本家」も一掃の対象だったらしい。
「おばさんとじいさんが住むにしては、無駄に広いでしょう? 古い家で、あちこちに段差もあるし。お父さんも、今はまだかくしゃくとしてるけど、つまずいて骨折なんてことになったら大変よ」
事故がなくとも、いずれ足腰の弱った博が車いすの世話に、などという事態も考えられる。そのとき、ついのすみかとして、今の「本家」は不適だろう。老父のため、介護を受け持つ自分のため、バリアフリーを追及した家に建て替えたいのだ。
老父のため、という錦の御旗は威力抜群だった。美幸は、生家に対する思い入れをあらわにしつつ、是非もない、と美咲の言を認めている。
一方の美咲、襟を正すと、テニスコートの件を取り下げる旨を宣言した。皆の反応を見るに、やらないほうがいいようだ。どうも私はものの見方がドライでいけない、と笑顔を浮かべながら。
こうして、あれよあれよという間に神宮寺家についての一大方針が定まったのである。
孝子たちは知らない。美咲は、はなからテニスコートなど、どうでもよかったのだ。本題の取っ掛かりになると感じて、口にしたに過ぎなかった。美咲の本題は「本家」の建て替えを美幸に認めさせることであった。建て替えた暁の新しい「本家」は、かつて望んで得られなかった「娘」を迎えるためのスイートホームになる。いくら大恩があろうと「新家」の狭小な部屋に、今更「娘」も帰りはすまい。
「大学を卒業したら、どうするの? 当てがないなら、取りあえず鶴ヶ丘に戻っておいでよ。ちょうど部屋なら余ってるし」
姉とけんかにならないよう、穏便に「娘」をわが手に収めるために考えた、これが美咲の一手だった。
そして、二週間の滞在を終えて、ミューアきょうだいの離日の日だ。孝子は学協北ショップ店内の壁掛け時計を見た。午後五時半。事故や遅延がなければ、午後五時発の便に乗る予定のミューアきょうだいは、既に機上の人になっているはずだった。
「行ってきてもよかったのに」
視線に気付いたのだろう。背後で書き物をしている涼子の声だ。孝子は見送りには行かなかった。アルバイトを休んでまで、と諦めたのである。
「その分、妹たちが盛大に送ってくれてますので」
自分以外のカラーズ勢をはじめとした大歓送団の存在を孝子は言った。
「私も仕事がなかったら行きたかったけど」
「一気に気安くなりましたよね」
「うん。きねづか、ってほどじゃないけど、役に立ってくれた」
謙遜だろう。相応の手加減はあったにせよ、アーティとも、なんとか打ち合っていた涼子だ。
「そういえば、カラーズテニス部って、本当に始めるんですか?」
「みたいよー。昼間に斎藤さんが来て、今度、ラケットとウエアを新調しに行こう、とか言ってたもの」
「好きですね。あんなに筋肉痛で、ひいひい言ってたのに」
ようやく日曜のテニスで発生した筋肉痛が治まってきた、という涼子だ。
「斎藤さんも、かなりきてた、ってね」
「おばさんたちだ」
「あなただって、ね。ちゃんと動いてたら、こうなったのよ」
斯波らとのおしゃべりに興じて、ほとんど体を動かさなかった孝子である。
「なりませんよ。私、若いので」
「生意気だな」
にらみ合いも、長くは続かない。一気に気安くなったのは、孝子と涼子とて同じだ。すぐにほどけて、笑顔となる。後になって、思い返してみても、定かではないのだが、おそらく、このころから、二人はお互いを、その名で呼び合いだしたようである。
孝ちゃん、涼子さん、と。




