第二六二話 ひと模様、こころ模様(七)
午後六時一五分は終業間際の学協北ショップに斯波遼太郎が駆け込んできた。
「はい。今日も配車完了」
クラブハウス棟の間近まで車を運んできた、と報告だ。今週に入ってからというもの、斯波は舞浜大学千鶴キャンパスに徒歩で通える距離に住んでいながら、車で通勤している。右足首を捻挫した年少の友人を送迎するためだった。
「ありがとうございます」
「斯波さん。神宮寺さん、今日、サポーターを外したのよ」
涼子の言葉に斯波はうなずいた。
「お。それはよかった。調子は、どう?」
「大丈夫みたいです」
「あまり長くそういうものに頼ってるのはよくない、と聞くしね。おめでとう。快気祝いでもするかな?」
「それが、今、ご実家にアメリカからアーティ・ミューアと、お兄さんがいらしてて、あいさつやなんかで週末はつぶれそうなんですって」
「今日も、この後、鶴ヶ丘です」
「ああ。妹さんに会いに来たんだね。じゃあ、そっちを優先しないと」
アーティとエディが鶴ヶ丘にやってきたのは、この日の午前だ。週の始めには来訪する予定だったので、だいぶ遅れた。事前の観光でエディが足を延ばし過ぎて、と説明されていたが、実際はレコーディングが伸びたためであった。孝子のせいといえなくもない。
「私は、こちらを優先したい気分です」
「せっかくはるばる来てくれたんだし。快気祝いは、来週末ぐらいに予約を入れておこうか。涼ちゃん、何か考えておこうよ」
「いいですとも」
善良の人たちだった。月曜日の夕方、北ショップに顔を出したときのことが思い起こされる。孝子の右足首を見てぎょっとした涼子は、即座に店舗を飛び出し、抱えて戻ってきたのが、クラブハウス棟の軽食コーナーにある背の高いスツールだった。
「はい、これ。その足で立ちん坊はつらいでしょ」
断り切れずに使っていると第二弾がきた。
「神宮寺さん。帰りは、どうしてるの? その足だと、運転はできないよね? 正村さん?」
「いえ。今日はアルバイトの日なので、歩きです。構うな、とも言ってありますし」
「あら」
涼子は取り出したスマートフォンを、何やら操作しだしたものだ。
「……ねえ」
「はい」
「この後、斯波さんとドライブに行く予定があるんだけど、ついでに送ってあげる」
「本当に、そんな予定あったんですか?」
「今、できた」
あっさりしている。午後六時半近くになって登場した斯波は、既に車を大学の構内まで持ち込んでいた。退路はふさがれ、以来、二人のドライブのついでに、海の見える丘まで送ってもらっていた孝子だった。
ふと込み上げてくるものがあった。二人への謝意と親愛が、滴となって頬を伝った。
「……どうしたの?」
「いえ……。お二人のご厚意がうれしくて。つい」
「ドライブのついでなんだし。そんなにかしこまらなくていいんだよ」
「うんうん」
斯波の言葉に、ハンカチで孝子の目頭を拭いながら涼子が相づちを打つ。
「私、お二人が大好きです。大学を卒業しても、仲よくしてくださいね」
「孝ちゃん、もう卒業だったっけ?」
「もう。台無し。神宮寺さん。私も神宮寺さんが大好き。ずっと友達だよ。……あの忘れっぽい人とは縁を切ったほうがいいと思うけど」
「あ。まだ二〇歳か。失敬、失敬」
そうは思っていないのだろう。斯波の笑顔はいかにも軽い。あるいは、知った上で、わざと間違えたのかもしれなかった。そのくらいやってのける軽妙の人、と孝子は斯波を認識している。
「これ以上、斯波さんがぼろを出さないうちに話題を変えましょうか」
涼子が言った。
「あーあ。なんだかんだで、涼ちゃんさんは斯波さんの味方なんですね。ごちそうさま」
「違います。私には私の話があるの。その人が締め上げられたところで、なんの痛痒も感じませんわよ?」
「この冷たさだよ。で、涼ちゃんの話、って?」
「うん。神宮寺さん。鶴ヶ丘には、正村さんと?」
「その予定です」
「アルバイトが済んで、だと遅くなりそうね。私たちが送っちゃ、駄目? ミーハーで恥ずかしいんだけど、アーティ・ミューアに会ってみたくて」
「いいですよ。お時間は大丈夫ですか。斯波さんも」
「もちろん、大丈夫」
思いも寄らぬ展開となった。敬愛する二人との鶴ヶ丘行きだ。華やぐ気持ちに、孝子の中から先ほどの涙の記憶は、いつしか消えていたのだった。




