第二六一話 ひと模様、こころ模様(六)
アーティは、剣崎、エディと相談の上で、『FLOAT』と『My Fair Lady』の解釈を改めると決めていた。ついては、新釈に力を貸してほしい、という孝子への要望がくる。
「よかったんですか? ほとんど終わりかかっていたんですよね?」
孝子は音楽家に問うた。
「いいものができるなら問題ないですよ」
にっこりと剣崎は笑う。
「ご迷惑をお掛けしまして」
「任せる、と言われて甘え切った俺の落ち度でもありますし。おあいこさまにしておきましょう」
「はい」
アーティの新釈は、ささ舟には沈んでほしくないし、母にも死んでほしくはない、であった。
「ケイティーの込めた思いとは違っているけど、私はこちらのほうが好き。ケイティーが許してくれるなら、これでいきたいんだけど」
いいのではないか。そうしたければ、すればよい。もはや他人の解釈にけちを付けるようなまねはしない。孝子はうなずいた。
「わかった。じゃあ、レコーディング、頑張って」
全員の動きが止まった。
「駄目なの……?」
「駄目なんて言ってない。新釈が決まった以上、私にできることなんて、もうないでしょう?」
「何をおっしゃるやら」
「いえ。本当に」
「……手伝ってはいただけない、と?」
「だから。あなたというプロフェッショナルがいる以上は、私の出る幕なんてありませんよね。間違ってますか?」
「もしもし」
二人の会話を止めたのは尋道だ。
「ミスター・ケンザキ。アートも。オカミヤへの要望は全て僕を通してください」
「え……。本人がいても、かい?」
「ええ。その上で、ご要望の件、回答させていただきます。『FLOAT』と『My Fair Lady』の新釈は、ご随意になさってください。オカミヤには絶対に不動の作意がありますので。協力は不可能です」
音楽家の顔に強い苦みが浮かんだ。
「そう言われたんじゃ、強行するわけにもいかないな」
「ここで取り下げたら、さらに怒りますよ」
目を見張って剣崎が孝子を見た。
「この人を見いだしたミスター・ケンザキなら、ご存じと思いますが、自由奔放に振る舞わせたとき、初めてオカミヤは持てる才能を完全に発揮するんです」
似たような言い回しを聞いた覚えがあった。那古野女学院の松波治雄翁が春菜を評して言った、全て信じて、全て委ねて、ではないか。あの「至上の天才」と孝子を同列に扱うなど、何を大仰な、だった。
「少しでも掣肘を加えれば、途端にむくれて、何もしなくなります。難しい、というのであれば、金輪際、オカミヤとは組まないほうがいいでしょう。腹が立つだけです」
孝子と尋道以外の全員が噴き出した。
「言ってくれるね」
孝子は車いすを動かして尋道に近づいた。
「的確な評だったでしょう」
「うん。ヒロにマネジメントを頼んだのは正解だったね」
「ちょっと待って、ヒロ。じゃあ、ケイティーは、私と一緒にはやってくれない、っていうの!?」
「どうなんでしょう?」
アーティの問いを、そのまま放り投げられて、孝子は首をすくめた。
「一緒に、って。私に何を求めてるの。一緒に歌う、とかなら、やらないよ」
「では、こういうのは、どうでしょう。アートが作詞して、ケイティーが作曲する、とか。逆でも、いいですが。これなら、一緒にできるのではないですか?」
「ああ。ネイティブの人の歌詞には興味あるね」
「ボイスティーチャーのような形で、歌唱についての意見を戦わせることもできそうですね。そして、二人が作った曲を、またこのメンバーで仕上げていく、と。アート。どうですか」
「いいわね……!」
どうやら円満に解決しそうた。ここぞとレコーディングの開始をあおる尋道の働きもあって、室内の空気は移り変わりつつあった。
「よっ。敏腕マネ」
とり直しの準備を進めるスタッフたちに遠慮して、コントロールルームの最後尾へと移った孝子は、同じく後退してきた尋道に言った。
「恐れ入ります」
「もう一つ、敏腕ぶりを拝見したいんですけど」
「なんでしょう」
「一〇〇億ドル。いらないし、いくらアートでも払えないでしょう」
「大丈夫です。口頭であっても契約は成立するとはいえ、書面に残ってませんので。そのうち、言った言わないで、うやむやになりますし、します」
危うく叫びそうになって、こらえるのに孝子は苦心しなければならなかった。かつて孝子は尋道を詐欺師と称したが、今回もまた見事な詐術といえた。全ては詐欺師もとい敏腕マネ氏の掌上にめぐらされていたようであった。




