第二五話 春風に吹かれて(八)
孝子の、大学生となって最初の週末の予定は決まっていた。友人の小早川基佳と、そのボーイフレンドの佐伯達也にお呼ばれしたのだ。待ち合わせは午前一〇時に、郷本きょうだいと会った時にも使った舞浜駅南口交番前である。
四月も半ばとなって、行き交う人々の服装も前回とは違っていた。陽光に合わせて、少しずつ軽く、少しずつ華やかに、と変じているのだ。そんな中にあって、孝子の服装は半月前と全く同じだった。グレーのパーカーにデニムパンツ、スニーカーの組み合わせである。養母の目の届かない場所では、とことん横着を貫く。
今、孝子はスマートフォンを眺めている。前回の「難しい顔」の騒動で懲りて、契約している電子新聞をスマートフォンに導入し、それを見て時間をつぶすことにしたのだ。一つの記事を読み終わるごとに、辺りをうかがう。トップニュースを半分ほど読んだところで、待ち人が現れた。
出会った時から変化のないボブカットを揺らしながら、白のゆったりとしたブラウスとブルーチェックのフレアスカートで決めた基佳が、小走りに近づいてくる。彼女との付き合いも、ぼちぼち四年になる。出会いの形は最悪だったが、よく持っているではないか。
最悪が発生したのは高校一年の春、入学式が終了して、最初のホームルームの時だ。担任の長沢美馬教諭が勢いよく配布していくプリントを、生徒たちは列ごとに後ろへ回していくのだが、孝子の列だけ一向に回ってこない。最初の席割は五十音の出席番号順で、前が島津基佳という女子生徒、後ろがなんとか君という男子生徒だった。なんとか君を、孝子は失念している。
見ると、基佳の机の上にプリントがたまっていた。もう一つ前の席に座る佐伯が、戸惑った様子で孝子に視線を送った。
「島津さん。プリント、後ろに回して」
反応はない。孝子がボブカットの背中をつつくと、反射の速度で基佳が全部のプリントを後ろに放った。宙に舞ったプリントを、孝子は取り損ねた。
「島津さん、拾って」
また、反応はない。気を使ってプリントを拾おうとした隣の列の女子生徒を孝子が制した。何事か、とクラス中に波紋のように当惑が広がっていく。
ついに――と表現するほど長い時間がたっていたわけでもないが――孝子は動いた。濃紺のブレザーの襟首をつかみ、思い切り後ろに引く。振り返った基佳が、つり上がった濃い眉の下から鋭い眼光をぶつけてきても、孝子は微動だもしない。にらみ合いは一瞬で終わった。親友の麻弥が「殺人光線」とひそかに呼ぶ孝子のまなざしに基佳は陥落したのだ。
「やめとけよ」
いつの間にかそばにいた麻弥が、床に落ちていたプリントを拾って、孝子の机に置いた。それでも孝子は基佳をにらむのをやめず、しまいには麻弥に、よせ、と言われながら手のひらで目隠しをされたのであった。
鶴ヶ丘高校に進学してくる生徒は、その半数が地元の鶴ヶ丘中学校の卒業生である。麻弥以外とはごく浅い付き合いしかしていなかった孝子は、周囲に、その短気を知られていない。容姿端麗、品行方正、学業優秀の人。これが神宮寺孝子の一般的な印象だ。その神宮寺さんを、あそこまで怒らせるなんて……。鶴ヶ丘勢の評で、基佳の立場はほぼ決まったのである。
孝子が担任の長沢に呼び出されたのは、四月の末だった。職員室に長沢を訪ねると、隣接する面談室に引き込まれた。話題は、やはり島津基佳についてだった。クラス中から爪はじき状態の基佳だが、孝子が許せば状況は改善するのではないか。そのような考えを告げられたのだ。
「先生。順番が違います」
まずは基佳がプリントの放り投げを反省するのが先であろう。その前に、どうして自分が譲歩しなくてはならないのか。孝子はきつい調子で反論していた。この時点で孝子は基佳に対して全くいい感情を抱いていない。早く席替えをして、あの女と遠くに離れたい、と願っているぐらいだった。
「うん。神宮寺の言ってることは正しい。正しいよ。正しいんだけど」
長沢の言によれば、基佳は家族の問題で精神的に参っているのだとか。
「ご両親が、間に弁護士を立ててどうこう、って話になっててね」
絶対に内密に、と長沢は孝子に念を押して、家庭訪問で知り得た事実を語ったのである。両親の離婚が多感な時期に衝撃的な出来事であるのは、理解できる。だが、そのために、どうして自分たちのプリントが放り投げられなくてはならないのか。基佳の両親の不仲に、ほんの少しだって関係しているわけでもない。基佳の行為は完全な八つ当たりだ。目に口ほどにものを言わせて長沢を見返した孝子だが、それでも感情の鋭鋒は、わずかにくじかれた。後日、五月の連休明けに実施される集団宿泊研修の班分けで、基佳と一緒の班になってはくれまいか、と長沢に打診された孝子が、渋々と承諾したのは、そんな伏線が存在したためだった。
集団宿泊研修は、毎五月、鶴ヶ丘高校の、その年の新入生を対象に催される行事だ。設定以来、場所は固定されていて、舞浜市の南方に位置する三海市の「三海青少年研修センター」が、その舞台となっていた。「三海青少年研修センター」は海と田畑に囲まれた立地である。構内には宿泊棟、体育館、野外炊事場などが点在しており、ここで生徒たちは、二泊三日にわたって行われる種々の研修を通じて、級友との融和を図るのだ。
研修初日の夜、野外炊事場でのカレーライス作りの時であった。孝子たちの班は四人班だ。役割分担は、孝子と麻弥、基佳が肉、野菜のカット、もう一人の女子生徒が飯ごうでの炊飯となっていた。カレーのように味の濃いものは食べられない孝子だが、手伝いはする。
「意外に上手だね。皮むき」
器用に包丁を操る基佳に向かって、孝子が余計な一言を添えての感想を述べた。
「刺されたいの?」
「刺すなら、一発で仕留めないと。必ず道連れにする」
麻弥、基佳、そして、米をといでいた女子生徒の表情が同時に固形化した。そんな三人を尻目に孝子は作業に戻る。周囲のにぎわいとは対照的な、重くよどんだ空気が辺りに立ち込め、容易に晴れなかったことである。
翌日は雨天だった。しかし、雨の勢いは弱く、小雨決行と研修のしおりに書かれていたとおりに、この日のメインイベントであるウオークラリーは実施された。神宮寺班の四人は、砂浜を歩いていた。夏になれば芋洗い状態となる場所も、五月の気温、水温では、さすがにまだ早い。しかも、この日は雨である。周囲には一行と同じ水色のジャージーしかいない。
基佳の歩みが遅い。具合が悪い、とかではなく、活力の皆無な、だらけた態度のためだ。
「麻弥ちゃん、ちょっとこれ持ってて」
孝子がウオークラリーのコース図を麻弥に渡した。そして、麻弥が止めるより前に、後方に走りだす。気配に、ぎょっと立ち止まった基佳の背後に回った孝子は、思い切りその尻をひっぱたいた。
「走れ。走らないと、次は、これで刺す」
孝子は手にしていた傘を畳み、石突きを基佳に向けた。観念した基佳はのたのた走りだした。孝子は全力疾走で追う。気配を感じたらしく基佳も全力疾走に移った。
「怖いんだけど……」
麻弥たちが待つ場所まで到着した基佳は、消え入りそうな声だ。
「真面目にやってりゃ、絡んでこないよ」
孝子にコース図を渡しながら、麻弥が言った。
「島津さん、これ」
麻弥が返却してきたコース図を、孝子はそのまま基佳に渡した。
「島津さんがリードしてね。間違ったら刺す」
「昨日から、殺伐とし過ぎだろう、この班は」
眉間にしわを寄せて、麻弥はため息交じりだ。
「島津さんのせい」
「お前もだ。もう二人でリードしろ。間違えたら、野田が刺す」
突如、話の主役に引き上げられた第四の班員、野田は小柄な体を震わせた。
「やめて、正村さん! 二人とも怖いんだよ!」
「遠慮しなくていいよ」
「遠慮してないって!」
悲鳴に近い声に、孝子、麻弥、そして基佳も、思わず笑い出していた。わずかでも、ほころびが入れば、後は早かった。四人が協力し、神宮寺班は優秀な成績でウオークラリーを終える。その後の日程も、仲がいいのか、悪いのか、聞いているだけでは判別の難しい会話を交わしながら、神宮寺班の面々は集団宿泊研修の二泊三日を終えたのであった。