第二五七話 ひと模様、こころ模様(二)
そろそろ始めよう、という剣崎の掛け声で歓談は終了した。アーティたちの動きが慌ただしくなる中で、孝子は、一人、泰然と構える尋道のそばに寄った。
「行くなら、言ってくれたらよかったのに」
「一度、お願いはしてるんです。重ねて言って、ご不興を買うのも、ばからしい」
「何度も言うな、って?」
「まさしく」
「ケイティー。ヒロも、こちらへ」
会話の途中だったが、剣崎に招かれて、二人はコントロールルームに向かった。前室を抜けて、室内に入ると、中にいた女性たちから声が飛んできた。
「ハイ、ケイティー! 久しぶりね!」
『逆上がりのできた日』のレコーディングで世話になったエンジニアチームの人たちだ。
「皆さま、ご無沙汰してました」
「お。前の、ぴりぴりした感じじゃない」
しとやかな孝子のあいさつに対して声が上がった。
「それは、もう。歌うのは私じゃありませんし。気楽なものです」
「確かに」
室内が、どっと湧く。
孝子と尋道はコントロールルームの奥にあるベンチに並んで座った。
「毎日、来てたの?」
アーティはメインブースの中に移動したので、ここは日本語の会話だ。
「まさか。大学もありますし。初日の朝に出迎えて、今日で二回目です」
「二人は、何時の便で来たの?」
「朝の五時ですね」
「そんな早くに、大丈夫だった?」
尋道は睡眠不足に、極端に弱い。早朝の便に対応するための早起きは、つらくなかったのか、と問うたのだ。
「ホテルに泊まりましたので。ぎりぎりまで寝てました」
「近くのホテル?」
「国際線ターミナルビルの隣にあるんですよ」
「面白そう。私も機会があったら泊まってみようかな」
「アメリカから戻られる方を迎えるのには便利かもしれませんね」
そうこうしているうちにレコーディングの開始が告げられた。滞りなし、と剣崎が称していただけに、アーティの『FLOAT』も『My Fair Lady』も、なかなか、である。悪くは、ない。随分と大上段の感想であったが、孝子は、そう思っていた。
解釈の問題だった。アーティ独自の解釈か、剣崎の指示かはわからぬが、軽い。誰でもそうだろうが、孝子の作成する楽曲にも、モチーフが存在する。そのモチーフを承知しているか否かは、歌手の楽曲に対する解釈に、大きな影響を与えるはずだ。孝子は面倒くさがって、モチーフを他の誰にも語っていない。剣崎の前で何度か歌ったことはあったが、わずかな機会だけで迫真には、とてもとても及ばない。
わかっているなら、進言すればいいものを、孝子に、その気は皆無だ。よくない姿勢とは思う。だが、たって望んだわけではなし。渋々やっている自分が出せる意欲の絶対値は、おのずから低水準となる。それに、だ。既に自分の手を離れた楽曲であった。預けた剣崎が、プロフェッショナルの剣崎が、認めている。孝子の作意など、どうでもいいだろう。毒にも薬にもならぬ、とは、まさにこれに違いない。失笑が、結論であった。
「……気に入らないみたいね」
手前勝手な思索にふけっていた孝子は、それが、自分に向けられたせりふと気付かなかった。
「神宮寺さん」
尋道のささやきに、見ると、アーティが鬼気迫る形相でこちらをにらんでいる。
「どうしたの、あの人」
「知りませんよ。ケイティー、何か、ジェスチャーでもしたんですか?」
「何も」
アーティがメインブースを飛び出してきた。孝子の前に猛然と突っ込んでくる。
「言いたいことがあるなら、言いなさいよ!」
間違いなく怒っているのだが、孝子には心当たりがない。
「何もないけど」
「じゃあ、なんで笑ったのよ!」
先ほどの、自嘲めいた笑いを見られたのか。だとすれば間の悪い。
「ああ。あれは、別件。あなたを笑ったわけじゃない」
「うそおっしゃい。ずっと、つまらなそうな顔をしてたわ。私の歌に文句があるんでしょ!?」
そんなところまで見ていたのか、である。歌に集中していればいいものを。
「人の顔にけちを付けないで。元々、こういう顔なの」
それはそれとして、真上でがなられ、しゃくに障った。孝子は立ち上がった。臨戦態勢に移行だ。
「ケイティー。やめましょう」
尋道、剣崎、信之、エディらが二人の間に割って入る。
「やめましょう、じゃないよ! けんか売ってきたのはあいつでしょう!」
「クソ女! 今、なんて言った!」
日本語がわからないアーティが怒鳴る。
「クソ女だと!?」
英語における最悪の侮辱を受けて孝子も完全に灼熱した。
「せっかく気を使ってやったのに。いいよ。言ってやる。下手くそ! 聞くに堪えない歌で、最後は笑ったよ!」
アーティの顔色が蒼白に変じた。
「言ってくれるじゃない。そんな大口をたたく以上は、クソ女、お前は、さぞ、歌がお上手なんでしょうね? 手本を聞かせてもらいましょうか!?」
「嫌だ。頼まれたのは曲だけ。それ以外は別料金。払うなら、歌ってやってもいいけど」
「払ってやる。歌え」
「一〇〇億ドル」
「え……!?」
「お前みたいなぽんこつと違って、私は高いのだよ」
「……なめるな、クソ女! 一〇〇億ドルぐらい、払ってやるわ! さあ! さっさと歌え!」
ついに孝子は尋道に手を引かれた。それでも懲りずに、コントロールルームの外に連れ出されるまでの間、まばたき一つせず、アーティに視線を撃ち込んだ。確固たる意志を内包した、史上最強の「殺人光線」であった。




