第二五六話 ひと模様、こころ模様(一)
週末、「中村塾」への送迎は、基本的に孝子の役目である。平日の送迎を、ほぼ受け持ってくれている麻弥との釣り合いだ。一二月最初の土曜日も、孝子は春菜と佳世を引き連れて重工体育館に向かった。トリニティをのぞいてくるので、帰りは少し遅くなる、と言い置いて。
発言には孝子なりの工夫が凝らしてあった。どこのトリニティに、と言わなかった。普通に考えれば、最寄りの舞浜ショールームだろう。違う。孝子は東京都目堂区のトリニティ本社に行く。現地のスタジオではアーティ・ミューアが、岡宮鏡子こと孝子の提供した楽曲をレコーディングしている最中のはずだ。岡宮鏡子のマネジメントを担当する郷本尋道に言われていた立ち会いを、一回ぐらいしておくか、と思い付きでの行動だった。
アーティと同伴者のエディ・ミューア・ジュニアは、一二月に入ってすぐに来日してきた。二人は滞在中の予定について、親しい神宮寺静に、こう伝えている。まずエディお勧めの観光スポットを巡り、その後に舞浜を訪ねる、と。レコーディングへの言及がなされていないのは、シャイを自称する孝子に配慮するためだ。関係者以外に知らせる必要を認めない、という意向に代表される排他的な音楽観を尊重すべく、陰で糸を引くのは尋道である。観光目的の訪日を明らかにしておけば、仮にアーティの目撃情報が舞浜に届いても、不審を抱かれない。いくら周囲に目を配ろうとも、一九〇近くある美女を、完全に隠匿するのは不可能だろう。であれば、いっそ、と開き直って、日本には来ている、とあらかじめ先手を打っておく。その上で、観光スポット巡りに費やす、とされる数日間を、そのまま、レコーディングに転用する。トリニティ方面への口止めの徹底は、言うまでもない。抜かりなく練り上げられた虚構だった。
重工体育館を経由したトリニティ本社行きは、少し渋滞に引っ掛かって、一時間弱の行程となった。孝子はトリニティ本社の裏手に車を回し、敷地内に進入した。ビルの一階は半分ほどが駐車場に充てられているのだ。車をとめると、剣崎に電話する。すぐにつながり、音楽家が駐車場にやってきた。隣には見知った顔の演奏家と金髪の男性がいる。
「やあ、タカコサン!」
孝子が手を振るとエディが声を張り上げた。
「エディ。その名前は、ここではご法度だ。気を付けてよ」
剣崎の注意が飛んだ。そういえば、そんな約束事もあった。どこの馬の骨か知られぬよう、岡宮鏡子とケイティーで、ここでは通していたのだった。トリニティ本社を訪れたのも、一年以上前になる。
「エディさん、初めまして。日本へ、ようこそ」
エディとの握手が済むと、孝子は演奏家に顔を向けた。
「おじさまもいらしてたんですか」
「うん。プロの作業なんて、めったに見られるものじゃないし、出番が終わった後も、ずっと見学させてもらっているよ」
そう言うのは郷本信之だ。今回のレコーディングで、アーティは『FLOAT』と『My Fair Lady』の二曲を歌う。これらの楽曲の伴奏に信之は参加しているのだ。ザ・ブレイシーズが誇るリーダーの演奏技術に対する剣崎の信頼であった。
「郷本君も来てるんですか?」
「うん。下で、アートと話してるよ。アートが、日本の寒さが駄目らしくて。外に出ようとしないんだ」
一年を通して温暖なレザネフォルから、いきなり一二月の東京である。しかもアーティ、初夏から初秋にかけて行われるLBAの遠征以外で、レザネフォルを離れたことがないとか。さぞ身に染みるだろう。
「わかりました。剣崎さん。お疲れさまです」
「やあ。そちらこそ。驚いたな。まさか、顔を出してくれるとは」
「郷本君に、立ち会いぐらい、って言われていたのを思い出して、一度ぐらいは、と。どうですか、調子は?」
「いいね。曲が少なかったとはいえ、こんなにあっさりいくとは思わなかった。分野が違っても、一流は一流なんだね」
予定していた二曲の、いずれもレコーディングに滞りはなく、今日中には完了するだろう、と剣崎は言った。
「それはよかった」
剣崎に案内され、地下にあるスタジオに向かう。ロビーのソファには尋道とアーティが座っていた。他に人影はない。コントロールルームのほうだろうか。
「ハイ、ケイティー」
気付いたアーティが立ち上がった。
「ハイ、アーティ。初めまして。タカコ・ジングウジよ。でも、もう知ってるみたいだし、そのまま、ケイティーって呼んでね。ヒロも、おはよう」
先ほどまでの日本語を改めて、孝子は英語で返した。英語話者との距離を縮めるには、これが一番であろう、と考えての行為だった。聞けば、剣崎も同様の判断で、レコーディングに関わるエンジニアたちに英語の習熟を課した、とか。
「ケイティー。私もアートでいいわ」
アーティは笑いながら孝子に手を差し出してきた。受けて、孝子も手を差し出す。横では尋道が黙礼だ。二人の交流を妨げぬよう控えているのだろう。
ふと孝子は気付いた。アーティの胸元で光っているペンダントのヘッドだ。
「アート。もしかして、そのペンダントは、ミス・カズハの?」
「そうよ。よくわかったわね」
ひとひらの葉っぱは、アクセサリー作家「ICHIYO」こと郷本一葉による、彼女の名をモチーフにしたオリジナルのデザインだ。空港で出迎えられた際に贈られた、という。
「きれい」
主脈と側脈まで、きっちり作り込まれた葉っぱの繊細さは、常のものとは思われなかった。アクセサリーの類いには関心の薄い孝子も、思わず見とれていた。
「実は、私、カズハにこれを頼んだのを忘れてたのよ。だって、頼んだのって、春よ。でも、それだけの価値はあったわ。こんなのって初めてよ」
「本当に」
孝子とアーティのペンダント談議は熱気を帯びる。若い娘同士らしいさざめきに、そばでは尋道、剣崎らがほほ笑んでいる。レコーディング順調だ。充足感で、そのまま、和やかな雰囲気に終始するだろう。誰もが、そう思っていた、この時であった。




