第二五五話 フライ・ハイ、カラーズ(二〇)
孝子は倫世の元に戻った。双眼鏡をのぞいている倫世は気付かない。グラウンドでは高鷲重工の選手たちが守備練習の最中だ。
「帰ったぞ」
「お帰り」
双眼鏡から目を離して、倫世が迎える。
「なんだ。近くで見たかったの? だったら、席を用意してもらえばよかった」
「ああ。さっきの人、えらそうだったけど、そういうことできるぐらいだったんだ?」
「どうする? 一人分ぐらいなら、なんとかなると思う」
「一人?」
「私は帰る」
「じゃあ、いいよ。結局、誰だったの?」
うなずき、孝子は座席に腰を下ろした。
「あの人は、木村さんっていって、重工さんの女子バスケのえらい人」
「ああ。そういうつながりか」
「で、名前が出た黒須さんって人が、重工さんの大物、かな」
「へ。黒須って、やっぱり、あの黒須さんだったか」
知っていたのか、の問いに倫世はうなずいた。
「そりゃ、うちのゴリラがお世話になってる会社だし。一通りの知識は、ね」
「じゃあ、この人は、わかる?」
孝子は先ほど受け取った橋本の名刺を取り出した。
「わかるに決まってる。ちなみに、この橋本さんと黒須さんがバスケ閥で、その間にいる社長が野球のボスね。しかし、すごいな。食い込んでるんだ」
「食い込んでる、っていうか。ひょんなことでね」
「……カラーズ、だっけ。そこは、バスケしかやらないの?」
倫世が顔を寄せてきた。孝子も倣う。密談の体となった。
「どういう意味?」
「あのゴリラも入れてよ。で、重工さんとのつながりを維持しておくの、手伝って」
倫世が評するには、川相一輝、とてつもない朴念仁という。母校の福岡海道高等学校との縁は、卒業と同時に捨て去り、定年を迎えた恩師に祝電すら打たぬ始末だ。
「仕方ない。監督には私がゴリラの名前でお祝いを贈ったよ」
「お前が教育しろ」
「無駄なことはせん」
一段と、倫世の声が小さくなった。
「あいつ、重工さんを、アメリカに行く前の腰掛けとしか思ってないんだよ。次も、間違いなく同じようなことをやる」
この手の人間の存在は、周囲に迷惑を及ぼす。特に、海道の後輩たちだ。川相で懲りたので海道生は今後、などと重工に言われては、救われない。自分が日本にいれば、いろいろと気配りもできようが、あいにく川相の渡米に同行するので、それはかなわぬ。間隙を埋めるのを手伝ってくれ、と倫世は言うのだ。
「よく気が回ること。優しい、優しい」
「そりゃ、お前。『海道の女神』とは、私のことよ」
「くたばれ」
「本当だって。私の引退のときなんて、下の子たち、みんな泣いたんだぞ」
「面倒見がいいのは知ってる。そっちは疑ってない。いけしゃあしゃあと自分を女神なんてほざくお前に、くたばれ、って言ったの。……でも、意外な気もする。聞いた? 前に、一度、会ったことあるけど、優しそうな人だったけどな」
「おかみが私の幼なじみ、って知ってたからだよ。自分の人生に関係ない、って決め込んだ相手には、ひどいぞ、ゴリラ。調べたら、ゴリラ伝説、いくらでも出てくるよ」
言われてみれば、片鱗は、あったかもしれない。川相が孝子と連絡先の交換に及ぼうとしたときだ。そちらに電話することはないが、と彼は言った。ならば、孝子とて、こちらも用はないのでいい、と返すしかない。
「……そんな人と一緒で、疲れない?」
「それが、私にだけは、優しい。ゴリラなりに気を使ってる、っていうのを見てると、かわいくなってくる」
「あ。そ」
「駄目……?」
聞いている限りでは、関わり合いになりたくない相手だが、幼なじみの頼みだ。要するに、OBとして、重工に失礼のない程度の交際を維持すればいいのだろう。いるではないか。カラーズには、殊の外、目端がよく利く男が。
「いいよ。ただ、カラーズには、そういうことの得意な人がいて、その人に頼む。それでもいいなら」
「正村?」
「そういうふうに見える?」
「全く、見えない」
「うん。別の人。言っておくけど、カラーズの主軸なんで。無作法があったら、お前も、たたっ切る」
「大丈夫。私との折衝になる。ゴリラとは話す必要はない」
「じゃあ、紹介する」
直ちに打診すると、郷本尋道は、わかりました、とあっさりしたものだ。田村倫世との通信手段さえ調えてくれれば、後は放っておいてくれて構わない、ときた。話が早くて結構なことであった。




