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未知標  作者: 一族
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第二五四話 フライ・ハイ、カラーズ(一九)

 孝子が長期休暇以外の平日に街歩きをしているのは珍しい。午後五時過ぎは、いつもなら学協北ショップでアルバイトをしているころである。

 連れ合いの顔も珍しかった。田村倫世だ。先週末に挙行された孝子の亡母、響子の一三回忌に参列した後、用事ができた、と舞浜までくっついてきた。用事は、恋人の川相一輝が出場する全日本総合硬式野球選手権大会の観戦であった。大会は一一月の中旬から始まっていたが、準々決勝までは日程が飛び石となるため、倫世は現地での観戦を自重していた。準々決勝以降は連日の開催となるので、勝ち進んでいれば、という考えだ。川相の所属する高鷲重工業株式会社硬式野球部は、先週の金曜日に準々決勝進出を決めた。これを受けて倫世の来訪となったわけだった。

 今、孝子と倫世が歩いているのは、東京都三谷区の国立運動公園南口通りだ。一一月の末日のこの日、公園内に所在する国立野球場において、全日本総合硬式野球選手権大会の決勝戦が行われる。このカード――高鷲重工業株式会社硬式野球部対ナジコ株式会社硬式野球部を観戦するため、現地に向かっている途中なのである。

「もしもし。たむりんさん?」

「はいはい。おかみさん?」

 球場前の広場に入った瞬間だ。幾重にも連なった人の列を目撃した孝子は言った。

「あれは、何かな?」

「チーム席に入るための列だよ。今日は、どっちとも大企業だから、すごいね」

「あれに、並ぶのかな?」

「並ぶのだよ」

「冗談でしょう? お前、昨日おとといも、この寒い中を、あの列に並んだの?」

「並んだよ」

「帰る」

「駄目に決まってる。ここまで来たんだ。最後まで付き合え」

 孝子たちが球場内に入るまでに、たっぷり三〇分かかった。やはり、来るのではなかった。恋人の日本で最後になる試合、と倫世にせがまれ、同行してみたものの、ひどい誤算である。アルバイトを休んだのは、絶対に失敗だった。涼子と斯波とだべっていたほうが万倍よかった。

 球場内に入ってからも受難は続く。座席に着いて一息と思ったら、目の前にアストロノーツ部長の木村が現れたのだ。

「いや。驚きました。まさか、神宮寺さんがいらっしゃっているとは」

「木村さまこそ」

 言いながら、孝子は思い出していた。年初に、国立運動公園の駐車場で、川相と交わした言葉だ。彼は、アストロノーツの応援に動員された、と語っていた。バスケのボスは代々、重工の大物が務めているので、断れないのだ、と。また、野球のボスも代々、大物なので、あちらもこちらの動員を断らない、とも。どの階層まで動員がかかっているのかはわからぬが、もしかすると、黒須も……。

「黒須が、ちょうど気付きまして」

 いやがった。あの男と話すことなど何もないが、木村ほどの立場の者に、使いっ走りをさせるわけにもいかない。

「ちょっと、ごあいさつしてくるよ」

「うん。いってらっしゃい」

「お友だちでいらっしゃいますか?」

「はい。幼なじみです」

 導かれたのは、応援団を眼前に眺める内野席中段であった。孝子たちのいた最上段付近とは、グラウンドで練習する選手たちの見え方がまるで違う。一等席なのだろう。

 黒須の周囲には、彼と同格と思われる年配の男たちが並んでいた。おそらくは高鷲重工の首脳たちなのだ。

「おう。まさか来てるとは思わなかったぞ。言ってくれれば、あんな上じゃなくて、いい席を手配したのに」

 黒須が手を上げた。

「黒須さまがいらっしゃると知らなかったもので」

「黒須先輩。私、動きましょうか?」

 木村、余計なことを言うな。孝子は内心で年長者を罵倒していた。

「お。そうしてくれるか」

「いえ。連れがいますので。今日はごあいさつだけで遠慮させていただきます」

「うん? 正村君たちか? 何人だ。必要なら、開けさせるが」

 なぜ、さっぱりと引かないのか。黒須の、こういうところが、孝子は嫌いだった。

「黒須。一度で駄目なら、そこで諦めんか。しつこい男はもてんぞ」

 黒須の隣に座っていたラウンドひげの男性の叱咤だった。重工の巨人に負けず劣らずの体格に見える。

「こちらは女心をよくわかっていらっしゃるのですね」

「ありがとう。あ。僕は、こういう者です」

 手渡された名刺には、高鷲重工業株式会社の代表取締役会長、橋本慎介とあった。孝子に驚きはない。黒須を叱責できるほどの人だ。バスケ絡みの直系尊属とみた。

「橋本さまでいらっしゃいますか。私は神宮寺孝子と申します」

「やっぱり。黒須に聞いてた。多分、あなただ、と」

「きっと、ひどい悪口だったのでしょうね。黒須さま、私に含むところがありますので」

「ほう」

「この前、ゴルフでけちょんけちょんにのしてやりましたの」

「おい。君。あれだけたたいておいて、よくそんなせりふが出てくるな」

「賢明な橋本さまなら、真偽のほどを見誤ることはないと存じますが」

 橋本、破顔一笑だ。

「神宮寺君は黒須の手に負える玉ではないね」

「実は、私も、そう思ってます。それでは、連れを待たせておりますので、橋本さま、私、失礼させていただきます」

「うん。そうだ。今度は僕とゴルフに行こうか」

「橋本さまにまで含まれてしまっては、私、困ってしまいます」

 絶妙の切り返しは橋本を大いに喜ばせたようだ。拍手に送られながら去りかけて、孝子は黒須の前で立ち止まった。最後の仕上げである。

「会長さんに叱られた、って奥さまに言い付けてやろ」

 横目で見て、鼻で笑う演出も付ける。

「おい」

 にんまりとした後は、最敬礼だ。事ここに至って、行動の選択を誤る孝子ではない。その器量を認めた上での軽口、と見せ掛けたわけだ。これで黒須の面目も立とう。

 橋本の叱咤に便乗して黒須をやり込めたことで、気をよくしていた孝子であった。

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