第二四話 春風に吹かれて(七)
高等教育機関ともなれば、入学式から日を置かず前期の講義が始まる。短い期間にオリエンテーション、健康診断といった行事が詰め込まれ、かなりの慌ただしさだ。中等のころのそれのつもりでいたら、大学生活の初っぱなで、いきなり出遅れるであろう。心せよ。祝賀会の席で、先輩風をぴゅうぴゅう吹かせるみさとの助言だった。
これだけであれば、なんということもなかったろう。みさと先輩の真骨頂は、持参のレジュメで発揮された。寸評付きの、お勧めの必修、選択必修の科目一覧と、同じく寸評付きの、要注意クラブ、サークル一覧だ。後輩のために作成してきたらしい。この女、用意周到である。
「ああ。いくつか、覚えがある。勧誘、しつこかったな」
ぺらを見た麻弥がつぶやいた。
「そう。私も、ね。身をもって、体験してるんで。ハルちゃんは、バスケ部に入るんだろうけど、神宮寺は?」
「どこにも入らない、と思う」
「なら、覚えておいて。あんたは、絶対に、集中砲火を浴びるぞ」
ここで春菜が胸を張った。
「お姉さん、お任せください。私がお守りします」
「確かに、ハルちゃんは頼りになりそう。頼んだぞ」
実際、春菜は頼りになった。同じ法学部法律学科のよしみもあって、ずっとつるんでいたのだが、驚くべきいなしっぷりだった。孝子を抱え込むようにして歩き、声を掛けられても、私たちは女子バスケ部、と言い捨てて、それ以上は相手にしない。そこらの男子学生をはるかにしのぐ体格の春菜に、追いすがる者は存在しなかった。
「講義は、四時限以降は入れないほうがいいよね」
学部オリエンテーションの後、学生食堂で講義の選択を話し合っていた時だった。同じ講義を、という春菜の希望を受け入れたのだ。
「いいえ。四時限でも五時限でも大丈夫ですよ」
「でも、バスケ部は……?」
「そもそも、私はまだバスケ部ではありません」
一般入試で入ったので、女子バスケ部への入部は必須ではない、と春菜は説明した。驚く孝子に、春菜は続けた。
「お声掛けをしていただいてはいますが、私は私の都合だけで動きます。中学、高校でも、特進コースでしたので、遠征に行かないとか、しょっちゅうでしたし」
舞浜市立鶴ヶ丘高等学校の神宮寺静と、那古野女学院高等学校の北崎春菜は、一歳違いの宿命のライバル、と称された二人だった。静が一年生、春菜が二年生の時の全国高等学校総合体育大会で相まみえて以来、通算五度の対決は、全て春菜の勝利に終わっている。
「大学では、バスケットはやらないの……?」
孝子は問うた。
「やるつもりですよ。鶴ヶ丘の顧問の長沢先生はご存じですか?」
「知ってる。私、三年間、担任していただいたの」
「そうだったんですね。長沢先生も舞浜大学の出身なんですよ」
「うん。聞いたことある」
「舞浜大の女バスの監督は、各務智恵子先生とおっしゃるんですが、この人、長沢先生のお師匠さんなんですよ。静さんや須之内さんを育てた長沢先生のお師匠さんは、どんな人なんだろう、って興味があって。ここに来たんです」
「企業のチームに誘われたりはしなかったの?」
妹の影響もあって、女子バスケットボール界の大まかな知識はある孝子だった。高校生の有望株は、ほぼ全員が卒業後の進路として実業団の強豪を選ぶのが普通だ。
「興味ありませんでしたので、全部、断りました。嫌ですよ。バスケ漬けなんて。私は大学生活を満喫するつもりです」
本当にすごい人、と目をきらきらさせながら春菜を称賛していた静の姿を思い、孝子は表情の選択に困り果てたものだ。
帰宅後の会話の種にすると、麻弥も孝子と同じく、困惑しきりであった。
「私立の部活の厳しさって、公立の比じゃないだろ? しかも、あいつのいたところって、女子バスケだと日本最強だよな」
「そう聞くけど」
「そこで、やってて、あいつはストレートで舞浜大の法学部なの?」
「うん」
腕組みした麻弥が、あきれたようにつぶやいた。
「世の中には本当にすごいやつがいるんだな」
全く同感の孝子だった。世の中には確かに、本当にすごい人、というものがいるのだ。