第二三八話 フライ・ハイ、カラーズ(三)
二人が鶴ヶ丘に到着したのは、午前六時をやや回ったころだった。車が神宮寺家の西門に近づくと、電動ゲートが自動で稼働する。ナンバープレートを参照して開閉するシステムなのだ。
「お。おじさん、出るところかな」
敷地内のロータリーでは、ちょうど神宮寺隆行が車に乗り込もうとするところだった。これから出勤のようだ。
「お父さん。ただいま」
「おはようございまーす」
隆行は仕事の都合で夏は渡米してこなかったので、半年ぶりの再会である。
「お。お帰り」
二人を迎えた隆行が、なぜか不意に笑いだした。
「何……?」
「いや。市井さん。那美が怒ってる」
「え……?」
傍らでは、心当たりがあるらしく、美鈴も笑顔だ。
「なんですか……?」
「いや。置いてった」
「え……? なんで、また……?」
しかし、美鈴は、あっはっは、と笑うばかりである。
「もしかしたら、一人旅で静が不安定になってるかもしれないんで、自分だけで、って市井さんが、ね」
「ああ。それで……」
美鈴はまだ、あっはっは、だ。
「あんまりぷりぷりしてるようだったら、静」
「うん」
「じゃあ、私は行くよ。市井さん。娘を迎えに行ってくれて、ありがとう。……大丈夫だった?」
「はい。スーちゃん、大丈夫でした。行ってらっしゃいませ」
「行ってらっしゃい」
そろそろと隆行の運転する車が西門を出ていく。手を振る二人にハザードランプの反応だった。
「しかし、スーちゃんのパパは、かっこいいね」
「美鈴さんのお父さんだって、かっこいいんじゃないんですか。娘がこんな美女なんですし」
「でも、はげてる」
「……え?」
「いや。顔は、まあまあのおじさんなんだけど。私が物心ついたときには、もうやばかった。懸案は、私がそこのところを遺伝でもらってるか、どうか、だ」
……これ以上の深入りの回避を静は選択するのだった。
「新家」の勝手口からは、かすかに明かりが漏れている。中に入ってパントリーを抜けると、ダイニングテーブルには美幸と那美の姿があった。那美は起き抜けらしく、カーキのネグリジェ姿である。
「ただいまー」
「あ。お帰り。市井さんも、お帰りなさい」
「ただいま戻りました」
那美の声だけない。じろりと美鈴を見ている。
「ジャージー! 裏切り者!」
「ジャージー……!?」
「市井さんたら、うちにいるときは、ずっとジャージーでごろごろしてるものだから。那美に『ジャージー』呼ばわりされるようになっちゃって」
美幸の解説だった。
「聞いて、スーちゃん。よく見て。これ、GT11のジャージーだよ。私、GT11の契約アスリートでしょ。スポンサーさまのアイテムを身に着けるのは当然だよね!」
そう言って美鈴は、白いトップスの胸に黒で刺しゅうされたGT11のロゴを示す。
「私もGT11ですよ。GT11には普通の服もあるじゃないですか。そっちを着ればいいのに」
そう返した静は、ボリュームのあるグレーのニットに黒のスキニーパンツといういでたちだ。いずれもGT11製である。
「そうだ。ぐうたらの言い訳をするな」
「こら、那美。美鈴さんに失礼でしょ……」
「起きてから、ずっとこんな調子よ。迎えに行くつもり満々だったのに、市井さんに裏切られた、って」
聞けば、一緒に行く、と約束をしていたにもかかわらず、朝になったら美鈴の姿がなかったのだとか。
「あっはっは。ナーミは今日は学校じゃないかね。朝が忙しくなるな、っていう配慮だよ」
「うるさい! 嘘つき!」
食って掛かる口調は、甚だ穏やかでない。美鈴も苦笑だ。隆行の指摘どおりになっている。頭に血が上っている那美を収めるには、事情の説明しかないようだった。せっかくの配慮ではあったが、これ以上、美鈴への誹謗は許されない。
「那美、やめなさい。……もう、美鈴さんが気を使ってくれたんだよ」
静の説明が進むにつれて、那美は伏し目がちとなっていく。ちらり、ちらり、と美鈴の顔をうかがっている。
「……ジャージーは、いい人なの?」
「いい人だよ。こんな美人が、嫌な人のわけがない」
「……言ってくれてたら、よかったのに」
「それだと、スーちゃんがべそかいたのばれるじゃないか」
「……そもそも、そんなことで泣く静お姉ちゃんが悪いんだ」
「そうだ。スーちゃんが悪い」
美鈴は那美と肩を組んで、静の指弾を始めた。先ほどまで、しょんぼりとしていた那美も勢いを取り戻している。瞬く間の逆転劇だった。守勢に立たされ、集中砲火を浴びる身としてはたまらないものもあったが、年長者の巧みな仕切りには乗っておくべきだろう。
「それなら、私を置いて帰った冷酷非情な美鈴さんが一番悪い」
「スーちゃんが、帰っていい、って言ったんじゃんか」
「言ってませーん」
「あっ。小娘、私をおとしめようとしているな」
笑いながら美鈴が組み付いてきた。おまけの那美も笑っている。受け止める静の顔にも、また、笑顔、だった。




