第二三三話 強風、ハロー(二五)
夜の海の見える丘にドアホンの響きだった。一人で自室にこもっていた孝子はぴくりと反応していた。麻弥は「中村塾」に参加している春菜と景を送迎するため不在で、当分、帰らない。このような時間の来訪者は、基本的には無視するのが常だが、念のため、確認しに向かった。
液晶モニターに映っていたのはみさとだった。
「……どうしたの?」
返事がない。肩で息をしているようだ。何かあったのか。
「あー、疲れた」
みさとを迎え入れると即座に孝子は玄関を閉めた。不審者にでも追われたか、と考えたのだ。式台に座り込んだ様子は、ただ事とは思われない。
「大丈夫?」
「一気に駆け上がってきた。いや、疲れたわ」
高台に位置する海の見える丘でも奥まった場所にある孝子の住まいだ。ここまで一気にとは、やはり、ただ事ではなさそうだ。
「立てる?」
「うん。大丈夫」
みさとをLDKに導き、デイニングテーブルで向かい合った。
「何があったの?」
「今日、ね。久しぶりに『中村塾』に行ってきたんだわ。差し入れをね、持って」
「うん」
「そしたら、すごい人がいて。で、知らせようと思って。あ。言うな、って言われてたんだけど、でも、聞いて」
……坂道を駆け上がったせいで酸素欠乏症になったのか。意味不明である。取りあえず水を飲ませておけばいいだろうか。
立ち上がった孝子は買い置きのミネラルウオーターを持ち出し、コップと共にみさとの前に置いた。
「飲んで。少し落ち着いてからにしよう」
「それどころじゃないんだって」
「飲め」
「すぐ怒る」
「斎藤みさとともあろう者が、これだけ脈絡のない話し方をしてれば、心配にもなるでしょう」
「おう。少し興奮し過ぎたか。……せっかくだし、いただこう」
みさとはコップにミネラルウオーターを注ぎ、一息に飲み干した。
「あ。なんか、染み入ってくる感覚が」
「運動してなさそうだし、無理はよくないよ」
「人のことを言えるのか、あんたは」
「言えるよ。おはる直伝のトレーニングをやってるからね」
「へ。何をやってるの?」
「筋トレとストレッチ。ああ。でも、走るのとは関係なさそうだし、私も斎藤さんと同じになるかな。で、何があったの?」
「黒須さんの奥さまがいらしてたの」
「……私でも知ってるような有名人だったの?」
「いや。多分、普通の人」
孝子はみさとのコップにミネラルウオーターを注いだ。
「うっはー。ばかを見る目で見られてるわ、私」
感情に対してかなり露骨に反応を示す孝子の顔面だ。その内意は正しくみさとに伝わったようであった。
「あんたに会いたい、っておっしゃってるんだよ。で、夫の無礼を謝りたい、って。どう? 『中村塾』が、あんなになって、正直、黒須さんに取り入るのは諦めかけてたんだけど、奥さま経由で、って悪いことを、私、思い付いちゃって、さ」
「黒須さんの奥さまに謝ってもらう必要はないんだけどね。だいたい、黒須さんだって、別に、謝ってほしいとは思ってないし。あの人とは合わない。それだけ」
「そう言うな、って。さっぱりとした、いい人だったよ」
「かわいそうに」
「え……?」
「あんな、傍若無人な人の奥さまがいい人とか。絶対に虐げられてる」
「それが、そうでもない。会ってみて。あんたと気が合うと思うな。奥さま、最近、あんたと会えたら、って『中村塾』にちょいちょい顔を出してるんだって。あ。もし、行ってくれるなら、私が話した、とは言わないでね。気を使わせたくない、って止められてるの。あくまで偶然を装って、自然な感じで、ね」
「……気が向いたらね」
そんなやりとりがあった週の終わりだ。朝の送迎を麻弥に任せた孝子は、別口で外出した。高台の麓にある海の見える丘駅から電車に乗って、四駅先の新舞浜駅で降りる。駅ビルで重工体育館に押し入るための差し入れを買い調え、いざ、である。
黒須夫人とやらが、いたらいたでよい。いないならいないで、みさとには、顔を出したけどタイミングが、と言える。
メインアリーナに入れば、すぐにわかった。まめなことに、みさとがいる。隣に立つネービーのTシャツワンピースをまとった女性と談笑中だ。あの人に違いなかった。
孝子の姿に気付いた「中村塾」、アストロノーツの面々からあいさつの声が飛んできた。受け答えしつつ、ちらりとみさとのほうを見やり、軽く手を上げる。みさともしれっと返してきて、名優たちの競演が始まったのであった。




