第二三一話 強風、ハロー(二三)
「中村塾」の拡充に伴い、カラーズの同塾への関わり方も一変した。九月も半ば近くとなり、折しも大学の後期が始まった。カラーズの全員は大学生だ。引き続き中村の下で勉強を続ける彰以外は、一歩、二歩、と後退した形になっていったのである。
後退した中で、変わらずに続いているのは、重工体育館への送迎だった。孝子が学協北ショップでのアルバイトを再開し、みさとと尋道が移動の足を持たないため、必然的に平日は麻弥が大方を引き受ける形になっている。
この日、麻弥は珍しく春菜と景に付いて重工体育館のアリーナに足を踏み入れていた。いつもであれば二人を駐車場で降ろしたら、そのまま走り去ってしまうのだが、今日は孝子からの差し入れを託されていたのだ。春菜あたりに押し付けてしまってもよさそうなところを、律儀に自ら遂行するのは麻弥のらしさであった。
とはいうものの、見ず知らずの人たちの中に、ぐいと突っ込んでいける孝子のような度胸も、ふわりと紛れ込んでいけるみさとのような愛嬌も、麻弥は持ち合わせていない。差し入れの紙袋を中村と、アストロノーツのマネージャーに託すと、
「じゃあな」
と小声で春菜と景に言って、そそくさと逃げ出した。
脱出を完了し、駐車場を歩いていると、麻弥の視界に変わったものが映った。思わず麻弥は足を止めていた。アズラ株式会社のAZカートという車だ。カートといっても、遊具やレースで使われる一人乗りのそれではなく、れっきとした二人乗りの軽自動車である。カートのような低い車高を誇り、人と車の極限の一体感をうたう。いわゆる好事家のための車だった。孝子であれば、小さな車、と思うぐらいで、そのまま素通りだったろう。しかし、麻弥は車好きで鳴らしている。
「おおー。低いな、やっぱり」
離れた位置で観察しているのは、持ち主の帰還に備えるためだった。接近して、中をのぞき込んだりしているところで鉢合わせたりしたら、目も当てられないではないか。周囲をうろうろとしながら、しばし陽光を浴びて銀光りするAZカートのたたずまいを堪能していた麻弥だったが、人の気配に気付いて、はっと身を翻した。アンサーバックの音とともに、視界の端にAZカートのハザードランプが点滅したのが見えた。全く、危ないところであった。
「……あ。カラーズの」
見ると、背丈は一七〇前後か。のっぺりとした顔をしたスーツの女性がいた。……誰だ。判然としないまま、麻弥は会釈した。アストロノーツのマネージャーは、この人ではない。第一、高鷲重工の関係者がアズラの車に乗っているわけがない。本当に、誰だ。
「井幡と申します」
歩み寄ってきた女性に名刺を渡されて、へどもどと麻弥は頭を下げながら、こちらも名乗る。こういうとき、斎藤みさとならば名刺の交換に応じられるのだろうが、あいにくと麻弥は名刺を所持していなかった。まあ、名刺を油断なく常備しているのはみさとだけなので、ここは仕方がなかった。
名刺には株式会社東京イクサに併記されて東京EXAとあった。どういう組織なのかは、わからない。困惑が伝わったのだろう。井幡は笑いながら、男子バスケットボールプロリーグのチーム、と名乗った。
「あ。そうだったんですか。すみません。不勉強で」
「いえ。正直、知名度はまだまだだと思うので。お気になさらず」
井幡由佳里は全日本のマネージャーだった。そして、平素は東京EXAで、こちらもマネージャーを務めている。男子プロリーグは一〇月初旬に開幕するそうだ。シーズン中のチームは繁忙を極めるため、「中村塾」に参加できない。彼女は、そのわびを告げに来たのだとか。
はあ、とか、へえ、とか。相づちだけの麻弥は、すぐに手詰まりになった。
「……そうだ。AZカート、井幡さんのお車だったんですね」
「ええ」
「実は、すごい車がとまってる、って見てたんです」
自爆の感もあるが、ほうけた顔をさらしているよりはましだ。
「そうだったんですか。こういう車に興味がおありですか?」
「ええ。車好きなもので。中でも、こういう車には憧れますね。明らかにスペシャルじゃないですか、AZカートの存在感って。乗るたびにわくわくできそうで、うらやましいです」
べらべらと、よくも出てくる。先ほどまで、もごもごとしているばかりだった麻弥の変貌に、井幡も目を見張っているではないか。
「え、ええ。……正村さんは、お車は?」
「向こうの、青い」
「あ。あのウェスタでしたか。あのフロントグリルって、マニュアルのやつですよね? ウェスタのマニュアルなんて初めて見ました。どんな人が乗ってるんだ、って。実は、私も興味があったんですよ」
フロントグリルのデザインで仕様を言い当てるとは、相当な車好きに違いない。これは、手強い。襟を正す麻弥だった。
その晩、海の見える丘の食卓では、麻弥がうるさい。AZカートの運転席に座らせてもらった写真を孝子に見せて、大威張りであった。
「すごいね。運転した感じも、うちのとはだいぶ違うんだろうね」
「うん。そう思う。ものすごい地面と近くて、迫力あると思う。運転してみるか、って言ってもらったんだけど、そこまではな」
「私も見てみたいな」
「うん。ただ、男子のシーズン中はすごく忙しいみたい。次は、いつ会えるかな」
その、いつ、とやらは、意外とすぐにやってきた。繁忙を極めているはずにもかかわらず、井幡はかなりの頻度で重工体育館に姿を見せるのだ。その流れから孝子も井幡と交わることになる。やがて孝子と麻弥は、知って、悟って、いった。高校時代に指導を受けて以来、変わらぬ熱量で中村に傾倒し続けている井幡由佳里のことを、である。
「わかる。中村さん、背が高いし、体のラインもきれいだし。かっこいいよな。あの人が先生だったら、そりゃ、ほれるよ」
それが、某「おじさん好き」の論評だった。




