第二二話 春風に吹かれて(五)
不審の声は、鶴ヶ丘高校を出発後、快走していた車が、勢いのまま海の見える丘を行き過ぎた時に上がった。
「あれ。どこか行くの?」
「はい。官庁街に」
助手席の孝子は振り返って長沢の問いに答えた。
「先生。おいしいもの、食べられますよ」
今度は運転席の麻弥だ。
「お前は何か知ってるの?」
「知ってます。私、役得。超役得」
「なんだよ。その言い方は。期待しちゃうぞ」
「多分、裏切らない店ですよ」
麻弥いわくの裏切らない店は、中区官庁街に店を構えるすし店「英」だった。舞浜でも屈指の名店で通る同店で、孝子は恩師のために「お任せ」を注文していた。
「え……。『英』のすしをおごってくれるの?」
「はい」
「待て、待て、待て。ここ、高いだろ。さすがに悪いわ。出すよ」
「先生のことだけを考えて、ここを選んだわけじゃないんで、気にしないでください」
「うん?」
「ここ、うちの行きつけです。わざわざ言わなくても、私の体質を考えて作ってくれるんですよ」
孝子はアルコールを全く受け付けない体質の持ち主である。飲ませたら死ぬ――自らも同じ体質だった岡宮響子の申し送りを受けた美幸は、孝子に関わる全ての大人たちに、理解と配慮を強力に、要請してくれた。長沢も担任として、その要請を受けていたので、この孝子の説明で得心がいったようであった。
「そうか。なら、遠慮せずにおごられるのがいいか」
「そうしてください」
「お任せ」を携えた三人が海の見える丘に到着したのは午後五時半だ。そこから順繰りに入浴を済ませ、晩餐の準備万端となったのは、一時間半後の午後七時である。
「すし。早く、すし」
最後に浴室を出た孝子がLDKに入るなり、長沢がうるさい。遠慮せずにおごられる所存とみえる。
「やかましいスエット女だなあ」
「その言い方だと私も含まれる。一緒にするな」
抗議の声を上げた麻弥と、ののしられた長沢は、共にスエットの上下に身を包んでいる。対する孝子は、ネグリジェの上にカーディガンという格好だった。要するに三人とも存分にくつろいでいるのだ。
「お前ら。それが恩師に対する態度か」
「やばい。怒った。孝子、早くすしを食べさせて、黙らせよう」
「うん。麻弥ちゃん、手伝って」
キッチンに置いていたすしおけを麻弥が運ぶ。食器棚からグラス、冷蔵庫から炭酸水のボトルを取り出して、孝子が続く。
「先生。私、一人前だと、少し多いんですよ。どれか持っていっていただけませんか」
「大トロをくれ」
すしおけを長沢に差し出しかけた孝子を麻弥が制した。
「先に乾杯しようや」
麻弥がそれぞれのグラスに炭酸水を注ぐ。
「よし。じゃ、乾杯しようか。孝子の合格を祝して、乾杯!」
「乾杯!」
「ありがとうございます。乾杯」
和やかな時間の始まりだった。孝子は、大トロを長沢に供する。麻弥も、苦手なうに、いくらといったあたりを長沢に押し付ける。長沢は、好き嫌いなく高級ずしを堪能する。
「そういえば、お前たち、指輪してたけど。あれは?」
「一葉さんからのお祝いです。私は孝子のおまけで」
「ああ、一葉か」
郷本一葉も長沢の教え子である。
「ぎょっとしたけど、男よけ?」
「邪魔にならないのが利き手じゃないほうの中指か薬指、って言われて」
「なるほど。そういえば、私にもくれたな。着けてないけど。なんか、合わなくてね。気になって仕方ないんだ」
言いながら長沢は、すしおけを見た。取って置きのボタンエビが残っている。
「おお、名残惜しや」
「今度はお店で食べますか?」
「いや。教え子のかわいい顔を見ながら食べるのがいいね」
言い終わるか、言い終わらないのタイミングで長沢は笑い出していた。
「なんですか、先生」
「本当は、高い店は作法とかうるさそうで、嫌だな、って」
「台無しだ」
「ははは、じゃ、ラスト、いっちゃおう」
長沢は大きく口を開いてボタンエビをくわえ込み、勢いよく尻尾をちぎった。濃厚な甘みを堪能しながら、何度もうなずいてみせる。満面の笑みに、教え子たちも釣られての笑顔を浮かべた。




