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未知標  作者: 一族
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第二二七話 強風、ハロー(一九)

「中村塾」の開塾から、一〇日余りが過ぎた。特に貢献できることはない、とさっぱり顔を出していなかった孝子が、両手に大きな紙袋を提げて重工体育館を訪ねたのには、理由があった。

 塾の活動の場となっているメインアリーナに孝子は入った。真っ先に、その姿に気付いたのは佳世だった。飛び跳ねながら近づいてくる。ちょうど休憩時間だったらしい。朝一からの活動が一段落して、もう一踏ん張りの前に、といったころ合いだったか。

「お姉さん。差し入れですか?」

 佳世は孝子が提げてきた紙袋の中をのぞき込んできた。

「あ。お菓子! ありがとうございます!」

「佳世君に食べさせるために買ってきたんじゃないがね」

「またまた」

 言いながらへばり付いてくる。大変な懐きようだった。この日は九月に入って初めての日曜日だ。昨日の土曜日に佳世は「中村塾」へ参加するため海の見える丘にやってきた。そこで見たのは、自分のために孝子が自室を分割してこしらえてくれた空間であった。例の、涼子と斯波と共に計画を立てたパーティションによる区分けが、その朝方に行われていたのだ。感動したらしく、ひとしきり打ち震えていたかと思うと、こうなった。

「こら。動けない」

 佳世の腕を抜け出した孝子は中村以下六人の固まりに近づいた。六人の内訳は、中村、春菜、景、瞳、彰、そして、初見の女性だ。アストロノーツのチームカラーという黒の上下をまとい、右手にはビデオカメラを持っている。

「お疲れさまです」

 あいさつを終えた孝子は持参の紙袋を、この女性に手渡した。

「初めまして。神宮寺静の姉の孝子と申します。妹のわがままに付き合っていただき、本当にありがとうございます。よろしければ、お召し上がりください」

 彼女は高鷲重工アストロノーツのテクニカルスタッフだ。「中村塾」の映像が欲しい、という静の要望を受けて、付きっきりで撮影してくれているのだ。アストロノーツは「中村塾」の後援に当たる、と事前の取り決めがあったとはいえ、静に個別の対応となると範囲外ではなかったか。事情を聞き付けた孝子は、謝意を示す必要がある、と所用のなかったこの日を待って、出向いてきたのである。これが、理由、だった。

「え……。これ、全部、私に!?」

「お姉さん。あんまりですよ。私にはないなんて」

 隣では佳世ががくぜんとしている。

「あるよ。佳世君の分も、ナジョガクへのお土産と一緒に買ってある。もう。なんて顔をしてるの」

「お姉さん。お裾分け、もらってもいいです?」

 進み出てきたのは春菜だ。

「もちろん。贈った後のことは私は知らない」

「いいことを聞きました。瞳ちゃん」

 春菜と瞳が女性に組み付いた。

「須之、池田。取って」

 春菜の指示による見事な連携が完成した。菓子折の入った袋を奪われた女性の絶叫が響き、隣のコートでは、何事か、とアストロノーツの選手たちが様子をうかがっている。

「息はぴったりですね」

 苦笑いの中村に孝子は声を掛けた。

「ええ。もう少し時間がたてば、アイコンタクトでいけますよ」

「中村先輩。勘弁してくださいよ。もう」

 戻ってきた紙袋を抱えた女性だった。口ぶりから察するに、彼女も桜田大学の卒業生なのだろう。

「神宮寺さん。差し入れ、ありがとうございました。みんなでいただきます。……お前たちにはあげないよ」

 女性は言うなり小走りにアストロノーツのほうに走っていった。残った全員は哄笑だ。

「じゃ、そろそろ帰る。中村さん、失礼します。みんな、またね」

「中村塾」の面々としばし交流した孝子は、休憩時間の終了とともに辞去した。去り際にはアストロノーツの選手たちの嬌声である。差し入れは好評だったようだ。手を振って応えながらアリーナを出た孝子は、通路を体育館北側のエントランスに向かって進んだ。

 エントランスのガラス扉の前まで来たところで、孝子はぴたりと足を止めた。ガラス扉の向こうは、まだまだ厳しい残暑の日差しだ。エントランスの外は駐車場である。ずらりと並んだ車からは、盛大にかげろうが立ち上っている。思わずため息の出る光景といえた。覚悟を決めて一歩を踏み出す。体育館内とのあまりの温度差で、熱気の壁にぶつかったような感覚だった。孝子は小走りに愛車へと向かった。

「あ。社長さん」

 声の方向を見ると『バスケットボール・ダイアリー』誌編集長、山寺和彦の姿だ。右手を掲げながら走ってくる。

「こんにちは。山寺さん。アストロノーツさんですか? やってますよ」

 取材に来たのだろう。さっさと取材に行け。私は暑い。……孝子の言外の願いは山寺には届かなかった。

「ちょうどよかった。お時間、よろしいですか? 少しお話を伺いたいのですが」

「……私になんのご用でしょうか?」

「『中村塾』のことを伺いたいんですよ」

 この男が「中村塾」のことを、なぜ、と思っていると、尋ねもしないのに山寺はべらべらとやりだした。

「昨日なんですが、ナジョガクさんに行ってきましてね。そうしたら、池田がいないじゃないですか。松波さんに伺ったら、中村さんのところにやった、とおっしゃるんですが、今は全日本の活動はお休み中でしょう。はて、と思って、いろいろ聞いていくうちに『中村塾』の話が出てきたんですよ」

 絶対に機密の扱いとしていたわけでもないだろうし、これは仕方のない話か。

「そうでしたか。私は部外者なので、詳細はわかりませんが、そちらも中でやってますよ。どうぞ」

「いえ。社長さんこそ『中村塾』のキーパーソンと伺ってます。ぜひお話を聞かせてください」

「……山寺さん」

「は……」

「中を使わせていただきませんか?」

 唐突に遠雷の響きのような、孝子のどすの利いた声にさらされて、山寺はおののいたらしいが、安心してくれていい。熱心に取材活動をこなしてきた者を攻撃するわけにはいくまい。悪いのは、那古野のじじいだった。余計な、しかも間違ったおしゃべりを、よくもしてくれたものだ。

 それに、怒るには、この場所は暑過ぎた。

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