第二一四話 強風、ハロー(六)
この際、静のことはいい。美鈴も知らぬ。春菜だ。春菜さえ動かせば、ユニバースの出場ぐらい、なんとでもなる。そして、自分の言うことなら、多分、春菜は聞いてくれる。「至上の天才」を擁して、中村には現職を全うしてもらう。その後は各務だ。孝子の思案は、これだった。背後の三人の気配には構い付けず孝子は飛ばした。
ほとんど同時に体育館に飛び込んだ四人に、女子バスケ部の群れから、いそいそと近づいてきたのは春菜だ。部活で火照った顔に、にやにやと笑みを浮かべている。
「お姉さんを動かすとは。考えましたね、中村さん。これは、私も動かないわけにはいきません」
「い、いや。私はまだ神宮寺さんが何をなさろうとしているのか、よくわかっていないんだが……」
「おはる」
「はい」
「中村さんは本気で全日本の、日本のバスケの未来を考えている人だと私は思った。中村さんに協力して」
「わかりました」
春菜は中村の前に立った。
「すみませんね、中村さん。こういう、いいかげんな女で。生真面目な中村さんには、多分、許し難いと思いますけど、仲よくやっていきましょう」
「全日本に、来てくれるのか……?」
「はい。ところで、お姉さん」
「なあに」
「さっき、中村さんが、お姉さんが何をなさろうとしているのかわからない、っておっしゃってましたけど。どういうことでしょう? 中村さんが、お姉さんに私の説得を頼んだんじゃないんですか?」
孝子は手招きした。春菜以下四人が顔を近づけてくる。
「中村さんをだました」
一斉に噴出だ。
「お姉さんが……?」
「中村さんが、辞任してでも、おはるを呼ぼうとした、って聞いて。率直で誠実な人なんだ、この人を引かせてはいけない、って思った。だから、私に全部、任せてください、って言って、勝手に話を進めた」
「……どうですか、中村さん。この方こそ、私の心の姉ですよ」
「ああ……。そういうこと、でしたか。これは、必ず、ご期待に沿わねばなりませんな」
中村は孝子に向かって深々と頭を下げた。
「はい。ご活躍を祈念しております」
「しかし、辞めようとされた、ってアジア選手権で負けた責任とかですか? 中村さんのチームなら、最終予選会も問題なく勝てたと思いますけど」
「いや……」
中村が口を開きかけたところに、押しかぶせるように春菜は続ける。
「まあ、私がいれば、例えば、残りの一一人が絶不調でも負けたりはしませんが」
「ああ。そうなるだろう。よろしく頼む」
「お任せください。さて。中村さん」
「なんだろう」
「せっかく私が加わるんです。目標はユニバース出場、なんてけちなことを言わず、最高の結果を狙いましょう。ゴールドメダルを取るんです。そのために、二点ほど、私の提案を入れていただきたいのですが」
「ほう……。拝聴しよう」
「まず、ゴールドメダルを取るためには必要、と私が考える人たちを挙げていきます。その人たちを全日本の候補としてほしい。これが、一点」
「うむ」
「次。私を含めてメンバーの大多数が、中村さんのバスケをよくわかっていません。メンバーの指導をお願いしたいんです。そうですね。この集まりを仮に『中村塾』とでも呼んでおきましょうか。これが、もう一点です」
「『中村塾』……!」
「どうでしょう?」
「わかった。では、君の推薦するメンバーから聞かせてくれるか」
春菜が挙げたのは、市井美鈴、神宮寺静、須之内景、池田佳世、武藤瞳――この五人の名であった。
「全員、承知した。……ただ、来るかな。市井には直接、断られたし、神宮寺と須之内は、私を嫌っている。池田は、いくらアンダーに呼んでも、松波先生は出してくださらなかった。武藤は、まあ、大丈夫だと思うが」
「一人ずつ片付けていきましょう。アメリカの美鈴さんと静さんは後に回すとして、まずは須之ですね」
須之、と春菜が呼んだ。すらっとした長身が、のろのろと近づいてくる。中村の顔は景も見知っているだろう。静の盟友として敢然と背いた相手だ。ステップを踏みながら、などという気分にはなるはずもない。
「須之。私、全日本に参加することになったんだけど、おいで」
景は無言だ。表情は、明らかに困惑のそれだった。視線が右往左往している。
「ゴールドメダルを取りに行こうよ、須之」
肩をたたかれ、困惑が惑乱になった。
「……あの、えっと、静と相談してからで、いいですか」
「いいよ」
開放した景の背を追っていた春菜の視線が、ふと中村に向けられた。
「……私、合宿のときに、生意気なことを言ったじゃないですか」
「指導者としては、まだ若い、というやつかね」
「それです。中村さんのバスケ道とは相いれないと思いますけど、ああいう子を、うまくあしらっていくのも、いい糧になるんじゃないですか。真の名将になるための修行と思って、甘受してください」
「精進しよう」
清廉の受け答えであった。見守る周囲は深くうなずき合っている。




