第二一一話 強風、ハロー(三)
新舞浜は、舞浜市中区の北部に広がる一大産業集積地域だ。新舞浜都市計画区域の名の下、北区南部の舞浜都心に対する副都心として、高鷲重工業株式会社率いる高鷲グループが、四〇年前から現在にかけて開発を進めてきた。
その成り立ちから、新舞浜は高鷲グループのお膝元として名高い。沿岸部に造成された人口島「高鷲島」にはグループの領袖、重工の工場が立ち並び、それ以外にも域内には「高鷲」の文字があふれている。
あふれた中でも最たるものは、中心にそびえ立つ新舞浜駅ターミナルビル、通称「高鷲駅ビル」だろう。重工グループの一、高鷲地所株式会社が手掛けた地上六八階、高さ三〇〇メートルの巨躯は、マンションゾーン、ホテルゾーン、オフィスゾーン、クリニックゾーン、フィットネスゾーン、ショッピングゾーン、などといったもろもろを内包する商住一体の複合施設だ。新舞浜の誇るランドマークである。
「高鷲駅ビル」の高層階を占めているのはマンションゾーンだ。売り出し価格は最安でも億を超えたという、まさに「億ション」の一室に、このとき、全日本女子バスケットボールチームのヘッドコーチである中村憲彦の姿があった。深くうつむき、半眼は固く握った自らの拳に向かっている。
一室の広大なリビングで中村と差し向かっているのは、日本バスケットボール連盟会長の黒須貴一だ。短く刈りそろえた頭を頬づえの上に置いて、眼光鋭く中村を見ている。二人の間には、この一〇分ほど会話がない。キッチンでは黒須夫人が、こしらえたつまみを、さて運んだものか、と盆を上げたり下げたりである。先に出した二つのグラスの中身は、全く減っていない。
黒須夫人を当惑顔にさせていたのは、全日本女子バスケットボールチームのヘッドコーチ職を辞したい、という中村と、それには及ばず、という黒須との応酬が原因だった。来年に迫った四年に一度のスポーツの祭典「ユニバーサルゲームズ」、その出場権を懸けたバスケットボール女子アジア選手権大会決勝で敗れた。これが、中村の辞意の理由だ。一方、全日本女子チームはアジア選手権準優勝という結果により、来年の「ユニバーサルゲームズ」開幕直前に実施される世界最終予選会への出場権は得ている。よって辞任は尚早。これが、黒須の慰留の理由である。
中村と黒須は大学の後輩と先輩の間柄だ。四六歳の中村と五九歳の黒須は、同じチームでプレーしたことはない。しかし、全日本男子チームのメンバーであった自分自身の再来と称された中村を、黒須は深く愛し、目をかけてきた。中村が大学時代のけがによって選手としての立身を諦め、教員へと転じた後も、黒須の厚遇は変わらず続いた。それは、例えば、連盟会長としての初仕事が、中村をアンダー世代のヘッドコーチに抜擢すること、といったような、だ。
「先輩。次は、絶対に失敗は許されないんです。ユニバースへの出場は、途切れさせてはいけないんです」
男女そろって予選敗退を繰り返し、長い青息吐息の時代を過ごしてきた日本のバスケットボール界だ。弱さは、罪、といえる。弱ければ世間からは、存在しないものとして扱われる。ない、以上、扱うという表現は奇妙か。確かに存在はするものの、誰の目にも留まらず、さながら空気のようなバスケットボール界だったのだ。
そんなさなか、全日本女子が三年前の「ユニバーサルゲームズ」への出場権を、実に一二年ぶりに得たことは関係者たちに勇気と希望を与えた。余勢をなくしてはならない。マイナーは、たった一度のつまずきが、そのまま致命傷につながる。注目を浴び続けること。そのためには、勝つこと。勝つためには、強くあること。再び、あの時代に立ち戻ることは、決して許されないのだ。
「……だったら、失敗しなければいいだろうよ」
「そう考えて、臨んだ今回、私は失敗しました。次回も同じことにならない保証は、どこにもないんです」
「弱気だな。点差ほどには悪い試合じゃなかった、と聞いたが?」
会合はアジア選手権決勝の翌晩に行われたものだ。
「内容は問題ではありません。結果です。私は結果を出せませんでした」
「だから、放り出して逃げるのか? だいたいな、お前。世界最終予選会、か。一年もないんだぞ。こんな時期に押し付けられるなんて、後の人間の迷惑も考えろ」
「……それなら、大丈夫です」
「……何が?」
「次の方は、失敗しません」
「……心当たりがあるのか?」
中村が挙げたのは舞浜大学女子バスケットボール部の監督、各務智恵子の名だった。
「各務……?」
言ったきり、黒須は沈思した。各務を知らないのだ。舞浜大の各務を知らないというのは、バスケットボールに関わる者としては、相当、といえる。この黒須貴一、バスケットボールへの熱情に問題ありとして、ひそかに周囲のひんしゅくを買っている人物だった。一例を挙げるなら、昨夜の試合についての評価が伝聞であったこと、だろう。国内の、それも隣県で行われた一戦に、なんと連盟会長の要職に就いていながら出向いていないのである。外せない用事があった、というのでもない。面倒くさがったのだ。愛する後輩の大一番だろうが関係なかった。そもそも、愛しているのは後輩だけで、後輩の手掛けていること、すなわちバスケットボールには、全く愛着を持っていない疑念すらある。黒須の、この手の逸話は枚挙にいとまがない。
これでいて、黒須会長は今年が八年目という長期政権の長だ。全て彼の出自故だった。黒須は高鷲重工業株式会社で取締役にまで上り詰めた男である。そんな男を連盟の長に迎え入れられたのだ。日本バスケットボール連盟は僥倖に恵まれた、といっていい。連盟にとって高鷲重工の存在感は誠に大きかった。あまたのスポーツについて、金に糸目を付けない振興策を展開している高鷲重工だ。日本バスケットボール連盟も、その恩恵にたっぷりと浴している。
文句など、とんでもない。試合を観戦しなかろうが、会議に出席しなかろうが、黙認である。大学時代の後輩という男を――幸い、男こと中村憲彦は優秀で、問題にはならなかったが――強権的に女子のアンダー世代、次いでは全日本女子のヘッドコーチに据えられても、だ。まれの狼藉を受け流しつつ、丁重に遇し、末永く重工との縁を保つことこそ肝要だった。これが、現日本バスケットボール連盟会長に対する周囲の評、である。
「……根拠は?」
「は?」
「その、各務さんとやらなら失敗しない、と言い切ったお前の根拠だよ」
「先輩。テレビ、使わせていただきます」
中村は立ち上がると、持参していたビジネスバッグからノートパソコンを取り出し、テレビに接続する。カラーズのSO101にある六五インチも真っ青という、巨大なやつだった。
その間に黒須夫人が寄ってきて、すっかりぬるくなってしまったグラスを下げ、新しいものへと取り替えた。つまみのだし巻きも、ようやくの出番だった。だし巻きは黒須の大好物である。
中村がテレビに映したのは、世界大学スポーツ選手権大会バスケットボール女子決勝の映像だった。
「……おい。日本の『9』、どえらい選手じゃないか」
かつての全日本メンバーは、さすがに日本の背番号「9」、北崎春菜の実力を正しく見て取った。
「あの子がいて、お前、負けたのか?」
「いえ。彼女は全日本のメンバーではありません。大学代表です」
「そんなの関係あるか。時期が重なったならさらってでも連れてこんか。全日本が絶対に優先だ」
「違います。断られました」
「……何?」
中村は語った。彼のつまずきの始まりとなった神宮寺静との決裂から今日までのことを。世界最終予選会での確実な勝利を得るため、北崎春菜の力は絶対に必要だった。だが、よっぽどのことがなければ、とのたまった彼女だ。よっぽどのこと、すなわちライバルと認める静の存在なき全日本へは、これも、絶対に、参加するまい。ならば自分は引くしかなかった。自分の後任が静を全日本に招集すれば、春菜は全日本に来る。春菜へのライバル意識に任せて日本を飛び出した、あの点取り屋、市井美鈴だって動く可能性があった。
後任に推した各務智恵子は、現在の春菜を指導し、静にとっても大師匠に当たる人物だ。両者の指導への親和性は、自分よりもはるかに高かろう。練習参加を通じて、美鈴とも面識があるのも大きかった。また、各務は長年にわたって大学女子バスケの名門、舞浜大学を率い、豊富な人脈を持つ。ヘッドコーチ交代の混乱は、彼女に託すことで最小限に収められるはずだ。これが、中村の考えだった。
中村の長い話が終わったところで、黒須は立ち上がった。顔に浮かんでいるのは、ただただの苦笑だ。グラスを手に寄った窓の外には新舞浜の夜景、そしてはるかには、煌々と輝く「高鷲島」の絶勝がある。
つと傍らに来た黒須夫人が、黒須の手のグラスを取って、新しいものに替えた。またもや、グラスはすっかりぬるくなっていたのだった。




