第二〇九話 強風、ハロー(一)
昼下がり、鶴ヶ丘駅前のラーメン店「鶴や」の裏手に伊澤まどかの姿がある。紫を基調とした、キャップ、Tシャツ、チノパンツ、スニーカー、といういでたちは、全てGT11で調えたものだ。帰国から一日たって、早速、着込んでいるのである。
排気口から排出されてくる豚骨スープの匂いに、まどかが鼻をひくつかせていると、扉が開いて高遠祥子が顔を見せた。
「……臭くない?」
「いえ。大丈夫です。私、豚骨ラーメン、好きなんで」
「そう」
祥子が家業を嫌っているのは、まどかも承知のことなので、ここではさっさと話題を変えてしまう。
「先輩、これ、お土産」
まどかは抱えてきた巨大な紙袋を祥子に手渡した。
「ああ、そうだった。お帰り」
「ただいまです」
「……多くない?」
「こんなに買ってきたのは、先輩だけです。秘密ですよ。他は、薄っぺらなTシャツだけなんで」
「ありがと」
「先輩、時間あります?」
「うん」
「全日本の試合、見ました?」
「見てるわけないでしょ。どうやって見るの」
昨夜に行われたバスケットボール女子アジア選手権大会決勝戦は、衛星放送のみだった。そして、高遠家のテレビ事情といえば地上放送のみ、である。
「怒らないでくださいよ。実は私も見てないんです。先輩、結果は?」
「知らない」
「じゃあ、よかったら一緒に見ませんか? 録画してたんですよ。もし、試合までに帰れなかったら、って思って。まあ、結局、疲れてて、眠くて、眠くて、見られなかったんですけど」
「わかった。ちょっと、待ってて」
「あ。先輩。私、この格好、ミーティアをイメージしてみたんです。先輩のお土産には赤いの入ってます。エンジェルスは譲るんで、着てきてください」
「はいはい」
いったん引っ込んで、再度、出てきた祥子は、まどかの言葉どおり赤を基調としたいでたちになっている。
「ちなみに、色は違いますけど、デザイン的にはペアルックです」
「余計なことを」
伊澤家は鶴ヶ丘を東西に走る国道に沿って、ずっと西に進んだ地区にある。ほぼ鶴ヶ丘の西端だ。鶴ヶ丘駅前からでは一キロを超える。盛夏に歩くには、なかなかの距離といえるが、この日は幸いにも曇天だった。
「先輩。会社訪問はどうでした?」
「主力が全日本に行ってたし、お盆を挟んだりで、そこまで本格的じゃなかったんだけど。……一人部屋って、いいな、って」
「え?」
「寮の部屋を見せてもらったの。新人でもちゃんと一人部屋なんだって。早く重工に行きたい。川の字とは、さっさとさよならしたい」
「川の字……?」
明らかに、口を滑らせた、という祥子の顔、および、動きだった。目を閉じ、天を仰ぐようなしぐさである。
「……まあ、伊澤だし、言うけど。うちは、いまだに川の字で寝てるの。入ったことなくても、想像できるでしょ。部屋が一つしかなくて、そこで寝るしかないんだ」
「はあ……」
「もう。重工に行ったら、二度と戻らない。里帰りとか、絶対にしない。縁を切る」
言葉の節々ににじみ出る色濃い情念に、まどか、返す言葉を見いだせない。祥子も、言い過ぎた、と思ったのだろう。黙りこくってしまって、結局、伊澤家までの道中、これ以上の会話は発生しなかった。
二人の間に会話が戻ったのは、伊澤家の玄関でのことだ。伊澤家の飼い犬、柴犬のミックが二人を出迎えたのである。
「ミックー! 久しぶり。私のこと、忘れてないかなー?」
「賢い子なんで、忘れるわけないですよ」
「なんで伊澤が威張るの。賢いのはミックでしょ」
「あ。祥子さん、いらっしゃい」
ミックに続いて出てきたのは、まどかの弟の浄だ。まだ一四歳の中学生だが、身長は既に一七八の祥子、一八〇のまどかを超えて一八五もある。この姉と弟は、よく似ている。つまり、姉は、女としては造作がややりりしく、弟は、男としては造作がややかわいらしい。
「祥子さん。内定、おめでとうございます!」
「ありがとう、浄君。……うん。大きくなったね」
「先輩、浄を見るたびに言ってますよ」
「うるさい。伊澤と浄君、よく似てて、言えることが限られるの。何か褒めたら、間接的に伊澤のことも褒めてるみたいで」
「いいじゃないですか。どうして私を褒めたがらないんですか」
「伊澤だし」
哄笑の後、二人は居間に移る。浄とミックも、いそいそと二人に従う。
「お前、なんで来るの」
「いいじゃん。別に」
「なんか甘いものでも買ってきな。そしたら、いてもいい」
「何、それ。祥子さんちに行ったんだったら、帰りのコンビニで買ってくればよかったのに」
「出てけ」
「もう……。お金はー?」
「仕方ない。出してやろう」
小銭を受け取った浄が居間を出ていくと、まどかはテレビのリモコンを操作した。大きな画面に表示された録画済みの一覧から「バスケットボール女子アジア選手権大会 決勝」――途中で切れてしまっている――を選んで、そのまま再生ボタンだ。
「……浄君、待たないの?」
「あいつはいいんです」
愚弟め、さほどバスケに興味あるわけではない。あるのは、姉の先輩という人についての興味だ。その昔より浄の発している、祥子への、そこはかとない恋慕を、まどかはしっかりと感知しているのだった。




