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未知標  作者: 一族
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第二〇八話 きざし(三〇)

 ほぼ滞りなかったカラーズ「旅行社」のツアーも、最後でほころびが出たようだ。

「助けて。『英』に行けなくなりそう」

 帰国前日、孝子への電話はみさとだった。カラーズ「旅行社」代表は、帰国後の締めに、皆で和食の膳部を堪能するつもりだったのだ。一週間ぶりの日本で、さぞかし和食が恋しくなっているはず、という読みである。神宮寺家の人たちの行きつけ、すしの名店「英」への予約も万全だったのだが……。

「見たところ、私と、ハルちゃん、雪吹君ぐらいかな。後は、皆、へろへろだわ」

「……ああ。斎藤さんは、大丈夫なんだ」

 出発前の多忙ぶりを考えれば、この女こそ疲労困憊になっていても不思議でないのに、とあきれ顔の孝子だった。

「元気、元気。余裕よ」

「キャンセルしておこうか?」

「いや。私、お膳、食べたい。人数、どうにかならない?」

「……私以外に八人も探せ、って?」

「おうよ」

 翌日までに、孝子、みさと、春菜、彰に加え、急きょ、内定祝いだ、と呼び出された鶴ヶ丘の師弟、長沢美馬と高遠祥子、さらには郷本尋道も巻き込まれて、計七人が編成された。バスケ組の活躍で、一二人分もなんとか片付いたのは、幸いだった。


 元気者たち以外は、それぞれ一目散に帰宅した。

「新家」では、那美、美幸、隆行がダイニングテーブルに着いて、孝子の作り置きをつついている。

「ジェニーのお店もおいしかったけど、やっぱり私は和食がいいな」

 一風呂浴びて、艶々とした那美が、だし巻きを立て続けに頬張った。

「……元気ね、那美は」

 美幸も風呂の後なのだが、こちらは重く沈んでいる。最初の一口の後は、箸も全く動いていない。母にとって、娘の試合は久しぶりだ。娘たちの不仲に配慮して、中学、高校あたりは全く観戦に行ってなかった。だから、騒ぎ過ぎた。その疲れが、どっと押し寄せた形である。

「静そっくりのママが大はしゃぎ、って話題になったそうじゃないか」

「知らない」

「いい年をしたおばさんが。もう」

「うるさい」

 げんなりとした様子で、美幸は顔を背けた。そのまま、半眼になって止まる。

「美幸。もう寝なさい」

「……もう少し。一日で戻したいの」

 午後七時は、確かに就寝には少し早い。美幸がむっつりと眠気を耐え忍んでいるので、必然的に場の会話は那美と隆行のものとなる。

「どうだった、レザネフォルは?」

「涼しかった。こっちに着いたら、おえっ、ってなったもん。蒸し暑くて」

「湿度が低くて、過ごしやすい、って聞くね。私も一度ぐらいは行ってみたい気もするけど」

「じゃあ、来年、行くー?」

「……そうだな」

 やや、間が空いた。

「ああ、ただ、休みの調整がな。短い日にちで行っても、後が大変そうだし。もし来年も行くんだったら、私は留守番してるよ」

 残念そうな口ぶりだが、その表情は妙に明るい。それもそのはずで、家族が出払ってしまえば、再び彼の長女との明け暮れを堪能できる、と思い至ったのだ。険のないかつての恋人、といった気性との一週間は、実に格別であったわけである。

「遠慮しないで行ってくるといい」

「……寝る」

 不意に立ち上がった美幸が、去り際に、すっと腕を伸ばしてきて、隆行の二の腕を思い切りつねった。

「痛いな。なんだい、もう」

 半眼の美幸が、片頬だけの笑みで応える。お見通し、ということらしかった。


 一方、「本家」の台所兼食堂では、美咲と博が、こちらも孝子の作り置きをつついている。

「ねえ。お父さんも、これぐらいできるようにならない?」

「できるわけないだろう。若いのに大したものだ。美幸の丹精だな」

 現在の「本家」の食卓を担っているのは博だ。昨年で六五歳の定年を迎え、頭に名誉と付く教授となってからは、時間に余裕ができたとかで手慰みに始めたのである。

「この一週間。天国だった」

「地獄ですまないな」

「いや。地獄までは言わないけど」

 朝は抜き、昼は勤務先で取っている宅配弁当を半分だけ食べ、夜は残り半分で済ませる。そんな食生活を、父が定年を迎えるまで、十何年も続けていた美咲である。質、量共に食に対するこだわりは皆無だ。故に、父の下手な料理も地獄とは感じない。

 しかし、そんな美咲でさえも、孝子の料理の見事さには舌を巻いている。こだわりがないからといって、味がわからないわけではない。地獄よりは天国がいいと感じるのは、当然だ。

「……孝子、大学が終わったら、どうするのかしら」

 箸を止めて、美咲がつぶやいた。

「ん……?」

「いや、ね。あのまま、海の見える丘に住み続けるのか。こっちに戻ってくるのか。あるいは、どこかに部屋を借りるのか」

「…………」

「あの子のことだし、極力、神宮寺の家の負担にならないよう動くと思うのよね。姉さんがお金を払うあそこには居続けないし、『新家』にも戻らないでしょ。まあ、あの部屋には戻りたくても戻れないだろうけど」

 美咲は「新家」での孝子のつつましやかな個室を言っているのだ。

「まあ、あっちの家は静のものになるんだし、戻りっこないか」

「……そうだな」

「……ねえ、お父さん」

「うん?」

「この家、建て替えちゃ駄目? 孝子の帰ってくる場所を、作ってあげたいんだけど」

 博の返事は反応は、ない。それきり二人の間に会話は絶え、時折、互いのそしゃくするかすかな音だけ聞こえる、という時間がしばらく流れた。

 やがて、

「美咲。美幸とけんかになるようなことだけは、しなさんなよ」

 それだけを言うと、博は自室へと引いていったのだった。

 一〇年以上も前の話になる。三十路前ながら立ち枯れの観を呈しかかっていた美咲が、胸中に生涯独身の覚悟を固めるなど、モノクロームの日々を過ごしていたころだ。当時の美咲は舞浜大学病院の勤務医だった。当然、多忙だ。が、覚悟の理由はそれではない。神宮寺家の女である。美咲も美貌の人だ。出会いは、あった。そして、幾度か、その道を通ってみて痛感したことが、

「面倒くさい」

 だった。孝子が感じている、この義理の叔母への親近感は、基幹部に似たものがあるから、だったろう。つまりは横着者なのだ。横着者が家庭を持つなど、先方にとっても、当方にとっても、不幸でしかない。ならば、覚悟を決めるしかないではないか。

 こうして、覚悟の人と化した美咲だったが、一つだけ、無念に思うことがあったのだった。それは、身近にいる二人の少女、静と那美の存在である。子供を得るに先だっての全ては、面倒くさい、のでごめん被りたい美咲も、めいたちをめでるのは好きだった。那美をくれないだろうか、と考えて、こんな女に育てられたら、どうしようもないのに育つ、と自重および自嘲して諦めた、こともある。

 そこに転がり込んできたのが、義兄の旧友の忘れ形見とかいう岡宮孝子だった。はっと目につく容姿は、自らや姉、めい二人の存在により目の肥えた美咲にも新鮮に映った。孝子の故郷である福岡は美人の多い県というが、確かな実例に大いに感心したものだ。

 その立ち居振る舞いにも、美咲はうならされた。よっぽど両親のしつけがよかったのだろう。九歳とは思えない完成度なのだ。美咲は思った。ここまで育っているなら、だらしない親でも大丈夫なのではないか、と。数カ月にわたる注意深い観察の末に、ついに美咲は決心した。叔母と父にも相談し、承諾を得た上で姉に申し込んだ。岡宮孝子を私の娘にしたい、と。

 ……まさか、断られるとは思っていなかった美咲だった。しかも、自分が娘にするので、という姉の返答である。およそ、考えられない姉の言だ。この近隣では分限者として知られた神宮寺家の本家に養女を入れるというのか。静と那美という二人が、既にいるにもかかわらず……! こちとらは部屋住みだ。養女を取っても後腐れのないのは、絶対にこちらなのに……! 断固として立ち向かった美咲だったが、ついには敗れた。

 そして、今、あのときの無念の残滓を一掃する機会が訪れようとしていた。

「はい。けんかにならないように、うまくやります」

 美咲の独語だった。

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