第二〇〇話 きざし(二二)
朝のミューア邸のリビングに、にこにことアーティが現れた。リビングでは静、エディ、シニアがくつろいでいる。キッチンではジェニーが朝食の準備中だ。ミューア邸の人たちの中で、最も朝の登場が遅いのはアーティである。遅いといっても、時刻はまだ午前七時を少し過ぎたあたりだが。
「おはよう!」
「おはよう。どうしたんだい、アート。ご機嫌じゃないか」
「世界大学スポーツ選手権とやらで、われらがステーツのチームが日本のチームに負けたんですって!」
……ご機嫌の理由は、これだったようだ。世界大学スポーツ選手権大会バスケットボール女子決勝は、同地の午後八時、レザネフォルではこの日の午前五時に開始され、つい先ほど試合が終わったところである。アーティ・ミューア氏、速報を見たのだろう。
「日本ごときに負けて! やっぱり、大学バスケなんて大したことないのよ!」
「……アート。スーのいる前で、なんだい」
シニアの渋面にも、アーティは悪びれない。
「スーとミスが特別なだけ。それ以外の日本人なんて、全然、大したことないわ。そんなやつらに負けたのよ。ステーツの大学生どもったら、どうしようもないクソね!」
あまりの成績不良に大学進学を諦めてLBA入りした、などという誹謗中傷を大卒選手から受けて以来、基本的にアーティが奉る彼女ら、および彼女らの予備軍である大学生への呼称は、この「クソ」だ。
「アート! なんて言葉を使うんだ! やめないか!」
シニアの強い口調に、アーティはむすっと黙り込んだ。
「みんな。できたわ。テーブルに運んで」
ジェニーの声に、静、エディ、シニアが動きだして、とりどりに盛り付けられた大小の皿をリビングに隣接したダイニングへと運んでいく。アーティだけ動かない。
朝食が始まった、が……。食器と食器の触れる小さな音だけダイニングに響く。ふくれ面のアーティは、リビングに立ち尽くし、シニアの表情も硬いままだ。いつも和やかなミューア邸らしからぬ空気に、静はきょろきょろと周囲を見渡すばかりだった。
やがて、口を開いたのはジェニーだ。
「スー。日本チームの勝利、おめでとう」
「ありがとう、ジェニー。日本チームには知ってる人もいて、私もうれしい」
「あら。同級生?」
「ううん。一歳上だよ」
「……アートは、ハルナ・キタザキサンを、知ってたかな?」
「……誰よ」
アーティがエディを一瞥だ。
「カラーズのスタッフだよ」
「……カラーズは、ヒロとミサトしか知らない」
「シズカサンの知ってる人っていうのは、そのハルナ・キタザキサンなんだ」
「……ふーん」
「アート。ハルナ・キタザキサンのプレーを、君は見ておいたほうがいい」
「……どうしてよ」
「恐ろしいプレーヤーだ。シズカサンも、ミスズサンも、ハルナ・キタザキサンを打ち破る力を手に入れるために、アメリカに来たんだよ」
はっとアーティのまなざしがエディ、次いで静に注がれた。
「……スー。どういうこと?」
「まずは、こっちにおいで。食べながら話そう」
エディに席を指され、アーティはのろのろと動く。その間、視線は静を捉えて放さない。
「今朝、世界大学スポーツ選手権の試合をシズカサンと一緒に見てたんだ」
「ええ? なんで私に声を掛けないのよ!?」
「アートがいたら『クソ』、『クソ』とうるさいだろう。呼ばなくていい、って僕が言ったんだよ」
実際は、それは静の「リクエスト」だったのだが、エディの配慮である。
「おい。ジュニアまでなんだ」
「ダッド、もう言わないよ」
どっかとアーティが静の隣に座った。ミューア邸のダイニングでは、円卓に時計回りでシニア、ジェニー、エディ、アーティ、静の順で座る。美鈴がいたときは静のさらに隣が彼女の指定席だった。
「スー。ハルナ・キタザキは、どんなプレーヤーなの? スーとミスが? 打ち破る力を手に入れるために? 二人とも、リーグで立派にやってるじゃないの。そんなプレーヤーが日本にいるなんて、信じられない」
「自分の目で確かめたらいい。今朝の試合は録画してある。……今のアートよりも、ハルナ・キタザキサンのほうが上だろう」
途端にアーティは立ち上がっている。食べてからにしなさい、とのジェニーの声には、猛烈な勢いでがっついて、頬袋に食物を詰め込んだリスのようなありさまだ。ジェニー、笑いながら天を仰ぐ。
「ジュニア。早く済ませて、付き合ってやってくれ」
シニアも笑っている。現役時代、激烈な闘争心で知られたベースボールのプロフェッショナルだった彼だ。娘に受け継がれた、その灼熱を見る目は、なんともうれしげなものであった。
行儀の悪くならない程度で、静も急いで食を進める。どうも、えらいことになってきた、という感じだった。




