第一話 フェスティバル・プレリュード(一)
神宮寺孝子の白い顔と、置き時計のデジタル表示――。
何度目になるか、本人にもわからない視線の行き来の後、正村麻弥は胸中に小さくため息をついた。午前九時二七分。三〇分になれば、舞浜大学の一般入試合格者が大学公式サイトの特設ページで発表される。孝子は昨年の受験シーズンを入院で棒に振っている。今年の一月から二月にかけては、彼女の雪辱戦だったのだ。
大方の者なら不安と期待とに打ち震えるような状況だろう。しかし、ぴったりとした青のフリースジャケットとデニムパンツに包まれた孝子の細長い肢体に、それらの気配は全く浮かんでいない。今、孝子はLDKの対面キッチンに陣取り、だし作りの真っ最中だ。程よい彫りで構成された小ぶりの顔に見えるのは、鍋の昆布を取り出すタイミングを誤らないことの緊迫のみである。
一方の麻弥というと、既に昨年、大金星と称していい戦果を挙げている。にもかかわらず、人ごとのためにそわそわとしているさまは、りりしげな外見とは裏腹な麻弥の人となりであり、泰然とした当事者との滑稽な対照でもあった。
思い切って麻弥は孝子の姿を視界の外に追いやった。ダイニングテーブルを離れ、こちらは孝子と異なる均整の取れた長身を、リビングのソファへと移動させた。そして、ソファに寝転がり、狭い座面で右に左にと寝返りを打っていたのだが、すぐに、はっと起き上がると、ソファに座り直し、広い肩幅と長い腕で上着の赤と青の違い以外は孝子と同じ服装を丸め込む。寝返り中に「落ちる」ことを警戒したのだ。もちろん、そんな友人のひそかな気遣いなど孝子は感知しない。花かつおを加えた後のだしのあく取りに専念し切っている。
一〇年来の親友同士である神宮寺孝子と正村麻弥が、同じ屋根の下での共同生活を始めて、はや一年がたとうとしていた。受験勉強のため親元を離れ、一戸建てに詰めた孝子を、ルームメートとして支え抜く決意を固めていた麻弥だったのだが、その意気は空振りに終わった。一日交代で、と当初は決めたものの、修羅場に突入すれば麻弥が全て請け負うつもりだった食事当番は、結局、一度も欠かさず、こなされている。洗濯、掃除といった他の家事も同じだ。試験勉強ただ一本に絞ってなお、苦闘続きだった昨年の麻弥と比べると、全く信じ難い軽やかな足取りで、この一年を孝子は駆け抜けてみせたのだ。友人の内外面にわたる超越ぶりは理解していたつもりの麻弥も、これには、まだ甘かった、と苦笑いを浮かべるしかない。
「九時半になるぞ」
孝子のほうからは話題にしてこない、と判断して麻弥は口火を切った。しかし、視線を向けてきた孝子は、何も思い当たらない、とばかりに、その長い首をかしげた。
「合格発表!」
「今日だっけ」
淡々とした調子の低音が返ってくる。
「なんで、そうも落ち着いていられるんだよ」
「試験はもう終わってるんだし。じたばたしても、仕方ない」
全くの道理ではある。
「九時半。見ていいか?」
あく取りの手を休めない孝子に麻弥は言った。
「いいよ」
立ち上がった麻弥はダイニングテーブルに置いていたスマートフォンを手に取った。麻弥のスマートフォンには合格者発表の特設ページが登録されている。孝子の受験番号も聞き出してあった。その後、特設ページへのアクセスが集中しているらしく、なかなかつながらない状況に舌打ちを重ねる麻弥と、そんな親友を見て失笑する孝子と、という時間がしばらく続き、やがて、午前九時四〇分を過ぎたころ、よしっ、と麻弥は拳を突き上げた。
「おめでとう」
「私じゃない。お前だ。おめでとう!」
「ありがとう。それより、麻弥ちゃん。味見」
そう言って孝子は、完成しただしを小皿に取り、駆け寄った麻弥に向けて差し出してきた。
「うい。……少しは喜ぶかと思ったけど」
「自分のできたこと、できなかったことは把握してる。落ちてない、と思ってたよ」
「私のときは叫んだけどな」
「それは見たかったかも。で。お味は?」
「うん。おいしい」
孝子は病的の域に達する、しょっぱい、嫌いだった。大抵の味付けを、だしだけで済ませてしまう。ルームメートとして暮らし始めた最初の日に、孝子は彼女の作った料理を示して、しょうゆでもソースでも好きにかけて、と言ってよこしたものだ。友人として孝子の事情は承知していたが、実際に彼女の食べているものの加減を、あの日、麻弥は初めて体験した。表情の選択に困る、とは、まさしくああいう場面をいうのだろう。
「やめておけ、って言ったよ」
すごまれ、冷や汗をかきながら、ホウレンソウのあえ物にしょうゆを垂らした麻弥も、今ではだしの愛好者になっている。