第一九七話 きざし(一九)
波乱含みのスタートとなった合同合宿は朝一から大きく動いた。
大学代表は、常に全日本の影になる宿命の下にある。大学代表の晴れ舞台である世界大学スポーツ選手権大会が開催されるとき、必ず全日本チームも、自らの臨む大きな大会に備えて活動中なのだ。二年ごとに行われる世界大学スポーツ選手権大会の年は、全日本チームの「ユニバーサルゲームズ」と世界選手権大会の、それぞれ予選が行われる年になる。一流ならば一軍たる全日本チームで両大会に挑む。つまり、大学代表に選ばれるメンバーというのは、全日本から見れば二軍なのだ。
その二軍が、合同合宿では一軍を圧倒していた。春菜が八面六臂の活躍をしたとか、そんな話ではない。純粋に圧倒しているのだ。根底にあるのは、やはり「至上の天才」の存在感だった。北崎春菜がいる、という思いで大学代表は全員が勝負することを恐れない。実際、全力を尽くした上での失敗は、不思議と春菜がフォローしてくれる。だったら、と思い切ったプレーに走ることができる。二軍とはいえ、選ばれし者たちだった。その選ばれし者たちが、勇躍して襲い掛かってくるのだ。全日本といえども苦戦するのは当然だったろう。
昼食の時間、両軍の雰囲気は対照的だ。やり込められた姉たちは沈思し、妹たちは陽気にさざめいている。そこに、遅れて両チームのスタッフたちが食堂に入ってきた。はたと妹たちのさざめきがやんだ。トレーを手に持った全日本の中村が、なんと大学代表のテーブルにやってきたのだ。テーブルの隅に陣取っていた春菜のそばに、わざわざ他の椅子を運んできて座る。
「……北崎」
ぼそりと中村が言った。ちょうど鶏肉の蒸し焼きを口に入れたところだった春菜は、手のひらで、待って、とする。
「ああ。失礼した。ゆっくりで構わない」
「……どうも。さて。なんでしょうか?」
「世界大学が終わったら、全日本に来てくれないか」
「試験が近いので、お断りします」
「……試験? なんの、試験だ?」
「大学の試験です」
中村の静止時間は、かなりのものだった。
「……各務先生にお願いして免除か追試にはならないのか?」
「なるか、ならないか、以前にお願いしません。しっかり勉強して、しっかり試験を受けます。バスケのために学びの機会を放棄するつもりはありません。学生の本分は勉強ですよ。今回は自業自得で、ここにいますが、ずっと昔からの私のモットーです」
再び、中村の動きが止まった。
「よっぽどのことでもあれば、話は変わってきますけど。そちらには、よっぽどのこと、起こりそうにないので、そういう意味でも、参加はできませんね」
「……神宮寺か」
「はい。私は中村さんに対して、含むところは特にないのですが、静さんはすごかったですね。レザネフォルでの試合、私も見ました。恨み骨髄でしたね。驚きました」
「……そうだったな」
「中村さん。一つ、伺ってもいいですか?」
中村は小さくうなずいた。
「どうして変節されたんですか?」
なぜ、レザネフォルに行ったのか。これまで静を干してきたように、今回も無視すればよかったではないか、という意地の悪い問いだった。
「……節を曲げざるを得ない存在になりつつある、と思ったんだ」
「あのときの合宿で、高一は静さんだけでしたっけか。それなりに評価はなさっていたんでしょうけど。だったら、どうしてあんなことをしたんですか」
「両打ちかね」
春菜は手にしていた箸を休めた。
「両打ちも。その後で干したこともです」
「彼女の両打ちについては、私の目が節穴だっただけだ。だが、あれは彼女にしかできない異能、とも見ている。もし、両打ちを志す者が私の目の前に現れたら、また、止める。そして、干したのは、私が矮小な男だからだ」
食堂のそこここで徐々に音が消えていく。
「神宮寺には腹が立って仕方がなかったよ。せっかく素晴らしい才能を持ちながら、なぜ、無駄な努力をするのか。私の言うとおりにして、片手打ちに集中すれば、もっといい選手になれるのに、とね。……あとは、かわいさ余って憎さ百倍だ。私の指示を聞けない子は必要ない、と。そのうち消えると思っていたんだが、そういう意味でも節穴だったな」
「そうですね」
「干したといえば、須之内もだ。見所がある、と思ったら、神宮寺に忠義立てして、私の誘いを蹴った。ああいう姿勢では伸びっこない。見捨てた」
今や食堂は完全に無音の空間となっていた。物音一つない。
「その見捨てられた須之が、静さんと並んであの世代のトップ選手ですか。中村さん、本当に節穴ですね」
「面目次第もない」
「中村さんって前は学校の先生だったんですよね? そんな体たらくで、よくやってこられましたね」
「……自画自賛になるが、新任のころから、その時々で、望み得る最高の結果を出し続けて、ここまで来た。失敗らしい失敗は一度もない。私ほどのコーチは、そういるものではない、と思っていたよ。知らず知らずのうちに権高になっていたんだろう」
「きっと、それに違いありません。でも、中村さん、指導者としてはまだ若いんですし、これを糧にしたらいいんですよ。頑張ってください」
改めての拒絶であった。中村はうなずいた。
「そうするか」
最後は、朝と同じく、渋い笑いでの締めとなった。




